しっぽのブログ: 「クラブきっず」と吉良吉影問題
の続き記事。
差別、特に今ある性癖などの差別に対して
どういう風に論じていかなければならないのか?という問題についてちょっと。
(相変わらずちょっとと言いつつ、えらく長い。)
上記記事について「自分なりに考えてるつもりの人」(こういうハンドルネームです)さんにコメントを頂きました。
それを見て読者に対して自分の言っていることがまったく伝わっていないことにうーんと思ったり、同時に、「自分なりに考えてるつもりの人」さんの意見はマジョリティとしてわりと最大公約数的意見だし、そういった意見の人がどういう方向から思想し、この問題をどう考えるのかとても良い題材を頂いたなーと思ったので、コメントに対する回答と一緒に、一般に対する話として記事にしようかと思いました。
(語説明 マイノリティ マジョリティ)
あらかじめ書いておきますが、一部の知識人の方々にとっては何を当然なことをこんなにゆっくり詳しく書いてるんだ?と思われると思うんですが、
僕は一般の人にとってここら辺が議論の最中に引っかかる部分なんじゃないかな?という思いがあって、つまり頭のいい人の文章は高度すぎるんだよ~とか思っているので、図を交え話し言葉を交え、で説明していくつもりなのであります。
いや、まあ僕に当たり前以上のことを語る能力が無いってのもありますが。
それで、間違っていたらすいませんが、「自分なりに考えてるつもりの人」さんの前回の記事に対する意見の基底はこの部分になります。
僕はそういった人たちを肯定も否定もしません。 ただ・・・
『人様(他人)に迷惑をかけたら許さない!』
だけです。 よく殺人犯にも『人権』はあるから弁護する光景を目にしますが、それは僕的にはアウトなんですよね。。
人様に迷惑をかけたら許さない理由は、自分の問題点を自分で解決できず、他人を巻き込む身勝手さ(レイプや少女誘拐、ゲイやレズも入るかな。。)もあるし、また僕からみたら他人でも、その人から見たら僕は他人なわけで、人様に迷惑=自分(僕ね)に迷惑をかけるな!とも言えます。わかりやすく言えば、俺は他人に迷惑をかけないから、他人も俺に迷惑をかけるな!っと言うわけですw
迷惑を受けて喜ぶ人っていますか?w
というような感じ。(全文はこちらから)
これはわーりと一般的にマジョリティの人がマイノリティに対して行う論調で、人様に迷惑をかけない限りはその存在を否定しないよ、というものです。
長いので、これをとりあえず、非迷惑理論と名づけますね。
それで、僕として何度かこのブログで主張して、前回もこの部分についてかなり主張したつもりでいたけど、あまり伝わらなかったようなので残念です。
今回は秘儀!図で説明する!を慣行しようと思います。
非迷惑理論は普通、上図のような形で認識されています。
マイノリティが発する迷惑が抑えられるのなら、もしくは自分に関係の無い位置にあるのであればその存在を許容しよう、というもの。
この図は一見正しいように見えるんだけど、自分を絶対的に「こちら側」に設定して絶対的な視点だけで判断されている点で間違っていると思うんだよね。
相対的に見てみればこんな感じになるのです。
人間の集合が2種類存在したとき、団体の性質に差異があれば、そこには当然お互いの利害の不一致が存在するよね。
利害の不一致はどうしても仕方ないことなんだろうけど、
非迷惑理論というのは相手に対して、この不一致を何とかしろ、と言う理論なわけだから、
こういう形に持っていこうという理屈。
つまり、両者の差異における不利益を一方的に相手側に全て押し付け、それができないのであれば弾圧するというもの。
もちろん図では同じ大きさのマイノリティとマジョリティは実際には互いのサイズは随分と違う。
でも、相手と自分、という意味ではこういった相対的な観点であるべきだし、集合の大きさによって意見の正当性が変わったりはしないわけだよね?
逆にだからこそマジョリティがマジョリティとして社会的不利益を受ける原因なわけなんだけど。
もちろん社会的弱者は弾圧されて当然に決まっている!という理論を持つ人なら別なんだろうけど・・・。
「自分なりに考えてるつもりの人」さんの発言の引用になるけど、
わかりやすく言えば、俺は他人に迷惑をかけないから、他人も俺に迷惑をかけるな!っと言うわけですw
こういう意見がほぼ一般的だと思うんだけど、この迷惑という基準がそもそも、マジョリティの定義する迷惑なんだよね?
だから、図で言えばマジョリティ側の主張が前面に通る形だよね。
結局、マジョリティは全ての不一致を相手に押し付ける形でこの問題を解決することを考えているわけで、とっても自分勝手な理論なのです。
こういった理論って、マジョリティ側の「普通」が、マイノリティ側の「迷惑」であるという相対的な部分を持っていないんだよね。
「普通」を絶対的なものと考え(もしくは感覚的に感じ)、「それから外れているのはお前らだから、責任はお前ら持ちだよね?」という認識であって、相手が自分の基準から外れているということは相対的に自分が相手の基準から外れているということであり、その差異のみについて同一であるという認識が無いわけですよね。
これらの理論を語る人は、別に否定はしないから、俺はマイノリティを理解しているから、とか思っていて、でも、臭いものに蓋をするというか「自分とは関係ないならね」というある意味排除論を使っているというわけなのです。
(参照:しっぽのブログ: 嫌儲:常識が違う場合。活動している人に分かって欲しいこと。あと事実関係。の部分やコメント欄でもこのことについて言及しています)
具体例を出せば、どこかにロリコンの人がいて、何かの弾みでそれがバレた場合に「うちには小さい子供がいるから近所にそんな人が住んでいるのは嫌だ」とか言うのがこれに当たるわけですよね。
何の犯罪も犯していないのに、マジョリティの「なんとなく嫌だ」を解消するために、引越しするとか弾圧に耐えるとかする必要が出てくる。
もしくはバレていない状態でそれを必死に隠すべきな義務を負うし、バレた時も隠していた!という理不尽な非難まで受ける。
それで、実はこういうことを後押ししているのは実際そういう事態に直面した人間ではなく、そういうのは自分とは無関係だと考えている多数のマジョリティが作り出す文化だったりするわけだけど。
つまり、上記の突き詰めれば出生即国外追放な主張が、一般の社会では実に普通の主張に思われている現状があるよね。
もし例えば、障害者の人が近所にいるのを「気持ち悪いから近くに住んでいてほしくない」とか言う場合を考えてみてほしいなぁ
言ってることは同じわけだよ?
この話は何度語っても語りきれないというか、もっと長時間かかってしまうので、なんとかわかりやすい説明ができないかなぁと思います。
ただ、はてな辺りではこれについてもっと頭のいい人が僕と似たような意見を持っているようなので、そういう人に汎用性があってわかりやすい説明のしかたを発明してくれることを期待~
今回の話でこれについての部分は
人がたくさん居るのだから、その一人一人の意見を聞いていては先にいけないので、多数決で進行していく、国会でもそうですよね?
恐らく、常識って多数決で決定されている事だと思うんですよ。例えば、深夜に爆音を轟かせて走る暴走族は非『常識』ですよね?
常識とはみんなが作った?暗黙のルールだと思います。常識っていう言葉は個人的には好きではないけど、でもそれを無視して『個人の自由』の名のもとに、自分勝手に生活をしていいとも思わない。
ここになります。
あ、繰り返すけどこれはあくまで一般的な意見として使わせてもらいます。
これと同じ意見の人多いでしょ?
以前はてなで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問が話題になったときに、その反応は大きく2つに別れ、その片方がこのように「当たり前だから、当然だから、暗黙だから、最大多数の意見だから」というものでした。
ちなみにもう片方は、常識や情、法律を使わずに説明を試みようとする意見で、それらも様々なパターンに分かれていました。
僕としては前者の、「当然だろ?」という意見は非常にわかるし、心理的に同意できるのですが、それでは理屈になっていないと思うんだよね。
元々質問は「どうして当然なの?」というものであって、当然だから当然ではトートロジーになるわけで。
常識が多数派なのはいいとして、じゃあどうしてその意見が多数派になっているの?という原因・理由を持ってこなければいけないわけなのです。
この、ルールの理由というのは非常に有用で、意見の理由がわかればその意見の問題を細分化して検討し、再構築できるよね。
そうすると、例えばこの常識はこういう原点で生まれて、こういう理由で現在も有効であり、この理由に照らし合わせれば有効な範囲はここまでであり、例外はこういうことになる、ということまで掘り下げることができるし、常識の違う人同士でその差異を照らし合わせ、正当さや妥協点を探ることができる。
答えが出るか出ないかではなく、理論っていうのはそういう思考をすることそのものであって、そうでなければいわゆる思考停止なわけですよ。
例えば、その昔ヨーロッパでは天動説が「常識」であり「当たり前」でありました。
当然なのだから、当然であって、疑問を抱くことさえおかしいもので、それに神が地球を中心に創らないなんて、反人道的であると考えられていました。
ガリレオはそれに真っ向からぶつかり、地動説を唱えました、が、まあ結果は知ってのとおり。
他に昔のアメリカでは、黒人を奴隷とすることが「普通」であり「最大意見」でもあったわけ。
もちろん今では、ひどい時代があったよねぇ、ってなものですが当時の感覚というものは常識を絶対価値観と考える人たちにとっては当然のことだったわけなんだよ。
多数派の意見は必ずしも正しいわけではなく、むしろ間違いを犯すことは多々あり、時には科学や文学や芸術の発展、差別撤廃、人道的価値観に大きな悪影響を及ぼしてきました。
しかし、人というものはなかなか過去には学ばないもので、昔の常識は間違っていたこともあるけど、今ある常識は正しいに違いない!と無条件で信じ込み続けているんだよね。
ず~っと人は、過去の常識を馬鹿にし、今の常識は当然だと思い続けているのです。
ところで地動説を唱えていたガリレオに対して、その説を取りやめさせた教会にも一理あるのです。
そもそもガリレオは地動説の明確な証拠を掴んでいたわけではなかったんだよね。
当時は測量などの技術もかなり甘いものだったし、地球規模の現象を証明するような方法も無かったから仕方ないんだけど、教会からすれば証拠も無く変なことをわめきたてる人の1人だったというわけ。
また、1人1人が思考し、理論的に考えることができるかできないか、というのも重要な項目。
当時のヨーロッパではまだ、全ての人が哲学や物理学に時間を裂くほどの余裕があるわけではなかったんだよね。
生活の模範を人に教えるため、いちいち理由を考えなくても、宗教や常識という形で圧縮され、それを無条件に信じることで、ほとんどの場合平和に暮らせていた。
もしガリレオの主張を教会が認めれば、その意味が良くわからない市民は、神が自分たちを中心に据えなかった事実に恐怖して、教会の求心力は失われて、著しく治安が悪化したと思われる。
とゆーわけで、教会が実際にそう考えていたかは別として、ガリレオの主張を認めないことは仕方の無かったことなのです。
まあそれでも、仮説としてさえも認めないというのはやり過ぎで、この失敗が科学に大きな悪影響を及ぼしたのは事実なんだけどね。
差別や排他主義においてもそうなんだけど、
各国で過去において存在した身分制度は、富の少ない社会を正確に維持するためにある程度は必要なものだったのです。
他人種を軽蔑し、自分たちから遠ざけようとする感情は、団体の生存に非常に有効だし。
男女差別にしても、そもそも生物学的に男女の身体に違いがあるのは、役割を分担させて生き残る確率を上げるためであったからで、古い社会において、それを利用しなければ生き残る確立が下がっていた事実があるわけだよねー。
つまり、宗教・道徳・常識・身分制度(今では差別と呼ばれるものを含む)・排他主義などは、全て、程度の差はあるものの社会維持や個体の生き残りのためにあるものと言える。
こういう動物的・原始的な維持思想は、時代の進歩と共に、つまり社会が富んだり、科学が発展したり、人々に理論的に思考する余裕が生まれてくると同時に、次第に余裕のある方向へ解消していく。
これを、思想の質が高くなる(いい言葉が思いつかなかった。理想の実現度?)と定義して図にするとこ~んな感じ。
(※思想の質というと語弊があるかな?社会的により許容しにくい思想という意味。)
所々が急激に上昇する形になっているのは、たいていの場合差別の撤廃や思想の改革は急激に起きるから。
例えば黒人差別の撤廃は、知ってのとおり南北戦争以後急激に上昇しているし、障害者の差別、一部の病気の差別は、科学技術や理解の広まりに連動して急に動くことがあるよね。
それで、思想の質は、上のほうで書いた、科学とか富とかの理由で、社会が許容できる範囲を超えることはできないわけだから、
社会が許容できる範囲を書き加えるとこのようになるのね。
(※この許容というのは、科学的、社会維持的、余裕的な原因によるもののこと。)
例えば、男女間の役割分担は日本において、大昔は必要不可欠だったかもしれないけど、今は全てが必要不可欠というわけではないよね。
それでもその役割分担の強要が社会の常識として一定数残っているのは、社会の許容範囲よりも、実際の差別解消が遅れてしまうから。
つまり差別ってのは、上の図において許容範囲(赤のライン)と実際の状態(緑の線)とのギャップを指すわけだよね。
どうしてそういうギャップが生まれるかというと、ひとつの原因として、多くの人が今まで自分たちが信じていた常識や道徳や宗教を強く信じて疑おうとしないから。
だから、科学や富が進歩し、時代が変化したのに関わらず常識を考え直したり再構成することができない、もしくは時間がかかる、というわけ。
もう少しわかりやすい例を出すと、とある感染症があって、それを社会的に排除することが社会の生存に必要不可欠だった時代があったけど、科学が進歩して原因の解明その対処法や、社会的余裕が増えて対応が取れるようになると、その差別はなくなってくる。
しかし、実際に差別しなくてもよくなっても、人々の心理的には根強い差別がしばらく残り続ける・・・という感じかな。
性的差別はもっと生物学的な排除本能が関わってくるからさらに厄介だよね。
ただ「本能なんだから仕方ない」とか言う人は人間が本能の一部を社会に合わせて書き換える能力を持つことが、人間の人間的である所以だということを忘れているのかと思う。
じゃあどうするのよ?っていうと、それはこの緑のラインをより細かく赤のラインまで近づけましょうよ、っていう話になってくる。
そのために、まずは赤のラインが実際のところどこにあるのか?っていうのがわからないといけないわけじゃない?
つまり実情に照らし合わせて、どこまでならどういう形で差別を排除していけるのか?という点を論じなければいけない。
これ、哲学的な話じゃなくて、社会学的だったり、統計学だったり物理学的であるべきな話ね。
そうすると、例えば、障害者の人が近所にいても大した不利益が起こるわけじゃないし、逆にそれを拒否したら障害者の人の不利益がものすごく大きくなるわけでフェアじゃないわけでしょ?
まあ、ここまでは普通の人も理解してくれるんだけど、じゃあロリコンの人はどうなの?っていう話。
実際にロリコンの人の犯罪率がそんなに高いのか?とか、ロリコンの人が教師だった場合に、そのこと自体に罪があるのか?っていう話とか
(もちろん写真をどうのこうのってのは罪になるって話は前エントリでしたけど)
そういう話を全部無視して、「ロリコンの人が近くにいると気持ち悪いから」じゃ駄目なわけ。
吉良吉影問題っていうのはこういう部分が根底にあって、一部の人が新しい常識を持ち出して、
「こういう新しい基準ではどうかな?実情と照らし合わせてこういう理由があるから相応しいと思うんだけど」
って言ってるのに
「新しい基準は今までの基準と違うから却下」
と返しているわけなんだよね。
もちろん全てのことに対して新しいものを認めろって言ってるんじゃなくて、社会的にまだ許容できないことってのはいっぱいあるから仕方ないとは思う。
でも、盲目的に今までの常識に照らし合わせて常識を変えないっていうのは完全なトートロジーで議論にさえなっていない。
だから今までの常識と、新しい常識の根拠を照らし合わせて、今の社会の実情を鑑みて、どっちが相応しいか?ということを議論しなければいけないわけ。
ちなみに僕としては性癖に対する差別はその質の犯罪率が異様に高いか、本人に犯罪暦が無い限りは不当に不利益を蒙るべきではない、と思っている。
それと、古い常識ほど圧縮的であるということも配慮しておかないといけない。
昔はパターンをいちいち当てはめて教えるほどの余裕が足りなかったせいで、理想は本来の理想よりも圧縮されて語られる。
例えば人を殺してはいけない、というのがあったとして、本当は自分の命に危険が迫った場合はどうか、とか自分の財産の危険ならどうか、とか色々細かい例外があるんだけど、これはある程度人々に余裕が出てきてからしか完全には教えられないから、常識としてもっと簡単な形に圧縮されるわけ。
そして人々に余裕が出てきた場合はこの圧縮がゆっくりと解かれる方向へ進む。
だから、上記のマイノリティとマジョリティの関係の話は、一括して大きな法則作って「はいおしまい」、とはならないわけだよね。
一つ一つの問題を見て、どっちが引き受けるべき問題なのか?もしくは折半なのか?もしくは第3の選択があるのか?っていうのを論じるのが正しいということだよね
こんな感じ。
僕の意見もまだまだ細かい先があると思う。
今の社会はインターネットが発達して、そして日本の2ちゃんねるとか、はてなは、こういった質の高い思想を生み出すことができる環境にあると思う。(いや、失敗も多いけどさ。)
日本には運がいいことに、こういうことに対して厄介な宗教観念も少ないしね。
こういう方向で思想できる人が増えてきて、社会的に大きな影響力を持ってくればそれなりのブレイクスルーが起きるような気がしているんだよね。
他人任せな話ではなく、エールとしてネットのブロッガーには期待していきたいと思う。
最後になって悪いけど、やっぱりはてなは凄いわけで、こういう思想がまとまっているところがいっぱいある。
ただ、惜しむらくは彼らはブログ有識人とでも言うか、僕よりとっても頭がいいので、読んでると難しい単語ばっかりで頭が痛くなるんだけど、文章下手な僕の長文をここまで我慢して読めた人はさらに参考のためチャレンジしてみるのもいいかもしれない。
ポイントとしては秋口に話題になった川原泉問題が一番いい。
この問題は結構話題になったにも関わらず、一般には「脇の甘い漫画家がいたね」で終わってしまって、いち少女漫画作者の問題から社会への問題提起だとは取られなかったことは残念だった。
green - 川原泉とホモフォビア
「自分は同性愛者を認める。個人の自由だから。ただ、私の周囲には関わらないで欲しい。そう思うのは私の自由」というようなことを言っていた。そういうことを言う人が、自意識においては同性愛者に寛容な人、で通用してしまう、緩さというか、ぬるさがあるようだ。
この人のブログはシリーズになっていて上手く掘り下げられている。
ただ、やっぱりなんというか難しくはないのだけど、対知識人として作られているので、特に上のほうで僕が書いた相対的感覚が理解できない人には読んでも意味不明なのではないかなぁと思えるのが難しい問題なのだけど。
green - 川原泉とホモフォビア問題(1)-表現の自由と差別について
green - 川原泉とホモフォビア問題(2)-ゲイ差別の強さ
green - 川原泉とホモフォビア問題(3)-過剰反応とみる調和
green - 川原泉とホモフォビア問題(4)-審判者としての恋人
green - 川原泉とホモフォビア問題(5)-すべての道はローマに通ず
あとここが事件そのものについてのこと
HODGE’S PARROT - 少女マンガに巣食う差別主義 川原泉問題
あとエントリの本題とは違うものだけど、この部分には注目しておきたい。
HODGE’S PARROT - パリで同性婚を阻むもの 差別知
これらのことを書きながら思い出したのが、川原泉とその「取り巻きども」のヘイトスピーチ/優性思想である。
まあ、世の中全て同性愛者になっちまうと、
今度は「種の保存」はどーなる、という問題が出てきますけどね。
(中略)
ただ、理解されないとか批判されていることについて同情する気もありません。
だって批判されるのわかってて行動してるんでしょう?
「個人同士はお好きにどうぞ」
「ただ、種として考えるとあんまり増えるのはヤバイんでないの?」
「同情はしないよ、せいぜい生暖かい目で見守るくらいかな」
これが管理人の同性愛に対する基本的な考え方です。
http://gushanorakuen.com/この人物は、「世の中全て同性愛者になっちまうと」と書きながら、その「全て」の中に「自分が同性愛者である」ことを含んでいない。だいたい「世の中全員」が同性愛者ならば、マイノリティ差別としての同性愛差別は、いかにして可能なのか?
長くて論点がズレそうなので少し省略しましたので、ぜひ全文はリンク先から参照してください。
このエントリで突っ込まれてはいないけど、
>だって批判されるのわかってて行動してるんでしょう?
の部分は大きな間違いというか、無知といえるかな。
性的嗜好が本人にどうしようもない、つまり出産前か幼児期に形成され、生涯それを変える事がかなり難しく、抑えることは強いストレスと心的な不安定を伴うことは、かなり科学的に実証されているのですが、その事実はあまり広まってるとは言えないみたい・・・。
(前エントリでこの問題について主に取り上げています)
逆に川原泉側に対しての相対的な認識として
こころ世代のテンノーゲーム - 彼女はそれを理解できない――川原泉現象には理由がある
しかし、それがあるいは「無意識」の産物なのだとしたら、どうだろうか。
語弊を招かぬよう言葉を言い換えれば、「理解不可能」「認識不可能」。
「彼女はそれを理解できない」――のだとしたら、どうなるだろうか。
非常に重要な観点です。
嫌儲の時も言ったのですけど、相手を批判する場合は、どうして相手がその思考に至ったのかを考察しなければいけない。
全てわかる必要はないけど、少なくとも「なんでそんなことを言うのかわからない」とか「どうせ妬みや単なる嫌悪でしょ」とか「陰謀だ」とかではいけないわけだよね。
相手と自分の思考の差異から原点まで近づけていき、どこでその差異が生じるか理解することは必要。
このことで言えば、それが川原泉の陰謀ではなく、無知故の失敗であるのではないか?ということ。
(本エントリの筋とは関係ないけど、途中にある夫のコレクションを捨ててしまった話はとても面白い。)
そして、これらのブログが川原泉そのものについてどうのこうの言ってるのは、それが時事だからであって、あくまでひとつの例であることには注意したいね。
だから、この事件がこうだった、で終わらずに、全ての事柄についてこういうマイノリティとマジョリティの差別は同じ問題を孕んでいるという認識を持つべきなはず。
特に同性愛はこういう風にちゃんと主張してくれる人がいるからまだいいけど、例えばペド性愛とか獣愛者とか猟奇なことに性的快感を持つ人(つまり吉良吉影問題の一番高い部分)についてはあまり論じられないから、そこは問題だと思う。
Apes! Not Monkeys! はてな別館 - 「われわれ/彼ら」図式の多様性
私が所属する集団は無数にあり、その各集団が別の集団との間に複雑な利害関係を持っているわけだから、私がもちうる「われわれ/彼ら」図式もまた実に多様であるわけだ。そしてそうした多くの「われわれ/彼ら」図式のうちどれが特権的に正しいのかを問うよりも、自分がどの「われわれ/彼ら」図式にコミットしているのかを自覚し、他の図式の可能性に開かれていることの方が重要だろう。
このエントリ書いてから見つけた記事ですが、少し言ってることが似ているような気がします。
この人のほうが理論だっているようにも思えますが。
つまり、このエントリは社会的な性嗜好の差別について中心を持ちましたけど、こういった思想団体同士や人種、国の差別も同じような問題を孕むということです。
かなり長いものになっちゃったので、後から文章公正するかもです。
内容は大きく変わったりはしないので、了承ください。
12/16
今日こんなところで前の記事が紹介されているのを見つけました。日付は今日付け。
マンガ☆ライフ | 今日のニュースと「真面目に書く」
[話題]■「クラブきっず」と吉良吉影問題[はてブ]
どこで線引きすればいいんだろう。
迷惑がかかるかかからないか、ってのはどうだろうか。
おまっ!ww
いやぁ、人に伝えるのは難しいね。
コメント
901 投稿者: 藍 (2006年12月13日 20:01)
自由の範囲を拡大していくと、しだいに正誤の判断の基準が根無し草化して人々は不安になると思うんですが、それはどのように解決されると考えてらっしゃいますか?
インターネットで思想が語られることには私も期待を抱いています。しかし日本は宗教観念が無いから思想活動を営むには有利だ、というのはおそらく誤りです。
伝統的な日本人は、考え、疑うということを非常に避けたがります。「語る必要は無い」、「語ることで物事が明らかになり摩擦が起こるよりは、なあなあのうやむやで済ませ、波風は立てないほうがよい」、それが日本人です。これは宗教的と呼んでさしつかえないほど深く根付いており、国全体にほぼ普遍的に染みこんでいます。さらにその性質が性質であるために、認識されることはほとんどありません。日本の伝統的思考は思想を偏らせるより以前に、思想を発展させまいと(積極的に)するのです。
なので、私は日本の土壌には残念ながら悲観的ですが、これからはわかりませんので希望は捨てずにいます(もちろん他人事ではなく)。
902 投稿者: しっぽ (2006年12月14日 00:45)
>自由の範囲を拡大していくと~
本文中にありますが、科学の発展による原因の解明、対処法の発見、人々の余裕の増加、議論の増加により一定数ずつ許容できるようになっていくはずです。
いきなり全てのことを許容するのは無理なのは当然です。
しかし、現状、実は許容できる範囲なのにも関わらず、常識に縛られて許容できていないものがあることを、議論しなければならないのでは?というエントリです。
>日本は宗教観念が無いから~
ある点において日本は有利であり、ある点において日本は不利であるのは当然だと思います。
宗教観念が無いというのはその点においては有利に働くと僕は思っています。
伝統的な感情は不利だとも思います。
この2つは非関連性です。
つまり、別に宗教観念が無いから日本人が伝統的になっているというわけではなく、独立した事象なので、日本人が伝統的であることを持ち出して「日本に宗教観念が無いことは有利になりえない」と語ることはできないはずです。
おそらく藍さんは、日本の有利度の総合値について語っていると思われるのですが、僕が言っているのは、
日本に宗教観念が無いことは運がいい
という程度で、総合値については触れていません。
少し反論がねじれてしまっていると思われます。
総合値については僕なんかにはとてもとても判断できません。
全ての事象については有利であることや不利であることが大量にあり、複雑です。
ですから楽観的になることも悲観的になることもある意味で正しいでしょう。
ただ、行動としては他国と比較する必要はありません。
というのは、国によって文中の赤いラインが違うというだけの話であって、このラインに近づけるということをしなければいけないのは、どの国も同じなはずです。
世界的に見れば僕たちは非常に運がいいと思います。
ですから、そこら辺はポジティブにいかれてはどうでしょうか?
903 投稿者: 藍 (2006年12月15日 11:43)
私が言いたかった要点は「日本には宗教観念が無いのではなく、それはあるのだが認識されていない」ということです。つまり、日本の宗教観念は、国民的な精神性の伝統的な部分にひそむことで宗教と認識されることをかわしてきたのであって、今日でも現然とその生命と影響力は保たれており、日本人は無宗教だという今日の一般的な認識は、このような宗教性を自分たちがもっているということへの無自覚を示しており、はからずも「日本人は語ることを(宗教的に)避ける」という指摘の裏付けとなっている――語られてこなかったためにいつのまにか無いと思われるようになっている――のです。
私が外国と比較しているきらいはぬぐえませんが、事実、この伝統的性格は思考停止を招き、語ることを知らない人を生む可能性が高く、現実もそれを否定していません。これは日本で思想や言論が営まれる上で大きな障害となっていると私はとらえています。(しかし障害を乗り越えて切り開いた未知の地平で良いものを得られるかもしれませんから、この障害について確定的に良し悪しを判断することは避けたいと思います)
906 投稿者: しっぽ (2006年12月15日 14:40)
伝統=宗教としてしまうのはどうかと思いましたが、確かに国々にはそれぞれそれなりの文化があり、それが新しい常識を受け入れない土壌になっているでしょう。
ただ、日本だけが特別それが強いと言われると、いまいちそういった事象がわからないのでなんともいえませんが。
確かによくそう言われますが、俗に言う項目の列挙ばかりで、具体的に統計的にそれを裏付けたものは見たことが無いので・・・。
もう少し具体的にいいますと、宗教の中で大きな性癖的な差別のハードルになっているものが、創造論あたりの話です。
実は本文に書ききれなかったのですが、性癖差別の原点を探るにはどうしても進化論を持ち出す必要があるのですが、創造論はこれと対立します。
日本では信じられないことですが、アメリカでは政治や学問のうえでも、生物は進化してきたのか、神が創ったのかについて論じられ、学校でどちらを教えるのかが大問題になっています。
日本ではほぼ全ての人が、生命は進化の道を辿ってきたと教えられていますので、これは非常に有利な一手となっていると思います。
また、今はそれほどありませんが、アメリカの宗教的な団体(というかキリスト保守)は時に強大な力で政治に介入してきまして、上に上げました創造論のほか、ソドミー法等に影響を及ぼしてきました。
長い日本の、敗戦の、米国追従の歴史の中で、日本国内でソドミー法が制定されなかったという事実だけでも大きな意味があると思われます。
どうも日本のよくある論調として、楽観的になると上手くいかないから悲観的になるべきだ、という考えがあありまして(例えば自然の浄化作用を語ると自然保護がおろそかになるからやめるべきだ、など)
僕としてはそういう考ではなく、できる限り日本の有利な点を探し、そこから攻めて行くのが良いんじゃないかなぁと思っているので、こういった認識の食い違いが出るのかもしれませんね。
907 投稿者: 藍 (2006年12月16日 00:09)
整理すると、しっぽさんの言う、日本の宗教的足かせの少なさという強みが、残っている宗教的足かせによって損なわれている、と私は考えているのです。
たしかに日本人は比較的広範囲な自由を享受していますが、そのルーツの存在を知らないためにこれを当然のものと考えている節があり、その深層には宗教的な批判忌避気質があるのです。
これは日本の宗教的気質は大きな自由を提供しているが、同時にこと言論や思想の分野では真綿で縛っているということです。
そのため、このままの日本では自由の拡大があったとしても、それはしっぽさんの望まれるような、論を交わして拓くことで為されるのではなく、なし崩し的で不透明な手法で為されることになってしまうでしょう。(あくまでも「このままであった場合」です)
インターネットの発達により、言われるところのブレイクスルーが起こる可能性については、私もさほど否定的ではありません。いつの時代でもそういった人は存在してきたからです。私は、ピラミッドの縦軸である質の点ではなく、それをとりまく裾野、つまり数の点において、前述の気質を消化して乗り越えない限り、この活動に参加する人が増えることは阻害され続けるだろうということで嘆いているのです。嘆くばかりでは他人頼りに過ぎるので細々とものを言い続けますが。
長々と付き合ってくださってありがとうございました。
930 投稿者: 紗羅 (2006年12月30日 08:19)
長い文章を読んで疲れましたw
民主主義=多数決原理とおっしゃる方が多いようですが、私はこれは誤りではないかと考えています。
確かに、民主主義における決定方法として、多数決は有用です。しかし、「民主」、すなわち人民主導の、という「人民」にはマジョリティもマイノリティも含まれるわけですから、常にマジョリティの利益を最大限尊重するのが民主主義であるという考え方は論理としておかしいはずです。
我が国でも、多数決原理による「選挙」によって国会議員を選出しています。しかし、これは国政の全てを選挙のみで決定する制度ではありません。国会議員に議論にさせることよって、マジョリティとマイノリティの利益の調和を図ることを目的としているからです。
社会は常にマジョリティとマイノリティが存在します。そして、両者の利益が相反する場合には、両者を比較衡量せざるをえません。
しかし、比較するときは、単にどちらが多数であるかだけではなく、一方が得る利益と一方が失う利益の、どちがらより大きいかに基づいて行うべきです。例えて言えば、「1万人のマジョリティが100円儲けるために、1人のマジョリティの命が奪われてはならない」ということです。
吉良吉影の性癖は、頭の中にあるうちは犯罪ではありません。しかし、実行に移せば、吉良の性癖よりも、かけがえの無い命を保護すべきだからです。
くらぶキッズの管理人も、頭の中で留めれば問題なかったはずです。個人で写真を収集する分には、処罰もされなかったでしょう。しかし、ネット上に公開して遺族に心理的苦痛を与えてまで彼の性癖を保護してやる必要はないでしょう。
ゲイやレズ、近親相姦などは道徳としては受け入れられなくとも(個人的にはゲイやレズは嫌いではありませんが)、個人の性癖ですから、刑法で処罰されたりはしません。道徳そのものを処罰することは危険だからです。
しかし、公然でSEXすれば処罰されます。それが性癖だからといって許されるわけではありません。社会秩序、すなわち人が集団で生活するために必要とする最低限のルールが乱されてしまうからです。
つまり、何がいいたいかというと、マイノリティな性癖であろうと、マジョリティな性癖であろうと、それが他の利益を侵害するようであれば処罰されるのだから、両者は平等なのです。人間は欲望がままに何をしても許される、というわけではないのですから。
自分のコメントも長い文章になってしまいましたw
1221 投稿者: 劣等生 (2007年02月07日 12:47)
頭が良くないのであまり難しいことは分からないし、前レスも理解もできてないかもしれませんが失礼します。
私は一般的には非常識のグループに入るでしょう性同一性障害者です。(女性の体で男性の脳)
今からする話が、フェチから始まり、猟奇・ロリコン…など他の変わった性を持った人にも当てはまるかと言うと…どうかなぁと思いますが私個人の意見としてお聞き下さい。
私は先天的なものなので、幼い頃から女の人を見ると(好みにもよりますが)どうしても恋愛の対象と見てしまいます。
しかし、小学生くらいにもなると自分の考えが皆と違うと分かりだし本能的に、「大変だ!コレではいけないんだ」と思い出すようになります。
もちろん私も人間ですし、批判的な目で見られることも、仲間はずれにされることも、うしろ指さされることも、自ら望むはずがありません。
だから、普通を装ったり、普通になれるように必死に男性を好きになる努力をします。
でもそんなもんで解決できるもんじゃないんですよね。
私が女の人を好きになりそれが周囲にバレてしまえば、家族も後ろ指をさされるようになるでしょう。家族もそんなこと望んでないでしょう。現に姉に初めてバレた時の第一声が「家族に迷惑かけないで」でしたからw
それでも女の人を好きになる気持ちは止められるものではありませんでした。
だからと言って、どんなことがあっても止められないというものではなく、他人への思いやりで、いざという時は十分カバーできるものではあると思います。
自分の家族に迷惑がかかるのはやはりこちらからしても気分のいいものではないので、隠します。
隠し切れそうにない、相手の家族にも迷惑がかかる、ましては相手自身が苦しんでいる、そんな場合はどんなに好きでも別れます。
私は一人で生きてもいいと思ってますよ。(世間が白人、黒人がいるけどどちらも人間だと思っているように私達みたいな人種もいると色眼鏡でみない世間だったら隠す必要も別れる必要もないのですがね)
でも自分の本能より私には守りたいものがあります。大事にしたいものがあります。
周りに迷惑を一切かけないなんてこと絶対に無理です。でもそれは誰でも一緒でしょう?
自分ひとりで生きているのではない、相手に感謝する、その考えがない人が性愛の種類かかわらず犯罪を犯しているだけであって、その人がロリコンとかレズだ、ゲイだとかどうでもいいことですよね。
そういうことをしっぽさんが言いたかったのでしょうか?
とりあえず、ロリコンだからあんな犯罪をしてもしょうがなかったかと言うとバツですね。
やはり遺族に対する思いやりの心がない、他人に対する感謝が足りない、もし命を大事にする心があれば例え遺体に感じる性格であろうと自分でストップがかかるはずですねw
1227 投稿者: しっぽ ◆fdGP2uSVfg (2007年02月08日 10:04)
2重投稿らしかったため、1コメントを削除しました。
劣等生さんの意見は非常に良い意見だと思いますし、僕の言いたいことに合致していると思います。
経験的にもこの問題を語るに強い体験をお持ちなはずでしょう。
2つ、気になることがあります。
あなたは家族に迷惑をかけぬよう努力をしています。
その努力はまったく正当なものですし、素晴らしいもので賞賛に値します。
ただ、僕は、その努力をしなくてもよい社会は実現不可能か?とも考えてしまいます。
実際性同一性障害者に対する偏見が社会から無くなれば少なくともその努力はしなくても済むはずですし、万が一のときも誰にも迷惑がかかりません。
僕はあなたのような努力をしなければいけない社会は間違っていて、現状それを打開できるだけの余裕が人々にあると思っています。
ですから、それを主張していきたいと考えています。
次に
>ロリコンだからあんな犯罪をしてもしょうがなかったかと言うとバツですね。
そのとおりです。
ですが、
>もし命を大事にする心があれば例え遺体に感じる性格であろうと自分でストップがかかるはずですねw
これは分かりません・・・。
生まれつき殺人などに衝動がある場合、それを抑えられるかどうか。
もし例えばそれが睡眠欲くらいに強い欲求であれば、、と思わずにいられません。
もちろん今の社会はそれを許容できるだけの状態にありませんから、そのような人には罰を受けていただき、僕たちは社会を維持していかなければなりません。
ですが、そういった人たちに命を大切にする心が無かったと決め付けてしまうのは、いささか危険に思えるのです。
もちろん多くの異常性愛と呼ばれる方にそこまでの危険な欲求があるわけではありませんから、これは個人を見て決めるべきことですが。
罪とは本人の責任によって起こるもの、と考えると間違いがおこります。
相手の責任ではなく、僕たちの社会維持という目的のために仕方なく発生するもの、だと考えてください。
社会を破壊する存在に僕たちは罰を与えます。
彼が悪かったと思えば気持ちは楽です。
しかし、実際には僕たちが、僕たちを守るために彼に押し付けたものです。
もちろんそうしなければ大切なものを守れないので仕方の無いことです。
しかし、将来的にその範囲を減らしていくことが可能であるかもしれないという思考は常に持つべきではないかと考えています。
1231 投稿者: さかな (2007年02月09日 10:16)
ここまで読ませていただいて少し感じたことを…
私は日本に生まれ、この国でしか生きたことが無いためこの国での数十年の生活範囲で考えたことです。
まずは差別について。
物心がつくか付かないかの頃から同じものでないものに違和感を感じるように教え込まれているのが差別の根本になっていませんか?
幼児教育でよくなされている同じ形や色を揃えて仲間を作る作業。出来て誉められると子供なら快感ですよね?
やればやるほど(よりささいな違和感を感じるものを排除すればするほど)誉められるわけです。
それは生き物としていつもと違う様子の食べ物は腐っている率が大きいなど生きていく知恵として必要でしょうし。
また、違和感が病気の広がりや災害から守ってくれたのかも知れません。
しかし、今の社会では「同じものは安全・安心」教育が当てはまらなくなって来ていて私はそれは自然な流れと受け取っています。
障害もそうですね。境目が実にわかりにくい。
コンタクトやメガネがないと生活が困難な人全てを補助具がないと生活できない障害者であるとは普通言いませんよね。
他にも入れ歯とか。
でも、車いすならどうでしょう?
心の違いはもっと複雑でしょう。
バラエティに富んだ種類が存在できたからここまで人間が世界にはびこったのでは?
マイノリティを削除することは人類の消滅につながりそうです。
長い分なのにまとまってなくてごめんなさいです。
1353 投稿者: 匿名 (2007年02月27日 21:52)
少し質問をさせてください
> 人様に迷惑をかけない限りはその存在を否定しないよ
というのが自分勝手な理論ということですが 問題はこの理論ではなく「迷惑」の定義にあるのではないのでしょうか?
そのことを考慮したうえであえて理解を容易にする効果を狙ったのなら納得できるのですが……
1354 投稿者: しっぽ ◆fdGP2uSVfg (2007年02月27日 22:18)
「人様に迷惑をかけない限りはその存在を否定しないよというのが自分勝手な理論」
という文章に間違いはないかと思われます。
この文章全体に問題がある、と書いた覚えは無いです。
普通、文章に問題があると言った場合、その文章の一部の理論もしくは前後の文脈上の問題を指すと思われます。