引用紹介、補足と反論とかです。
2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ [絵文録ことのは]2007/01/13
嫌儲とかいう単語を使ってくれているので、言及しようと思ったのですが、なんか途中で面倒になって中途半端に補足、反論しておきます。
言及していないところは、だ~いたい、同意、くらいに思ってください。
このページでは仮に「2ちゃんねるコミュニティに帰属意識がある人」と定義してみたい。つまり、2ちゃんねるが批判されると腹が立つ人である。
この定義は面白いね、色んな事件に合致するというか、少なくとも2ちゃんねるにどれだけ書き込んだら、とかいう定義よりよっぽどまともだ。
ただ、次の文章がちょっと誤解されやすい。
私の嫌いなのは、こういう「2ちゃんねるコミュニティに帰属意識がある人」たちの振りかざす社会正義なのである。
こんな文章を繋げちゃうと、帰属意識がある人=2ちゃんねら=正義を振りかざす、みたいに言ってるように見えてしまいますよ。
実際に言いたいのは、「帰属意識がある人=2ちゃんねら」の一部が正義を振りかざしていて、それが嫌い、みたいな主張だと思うし、文章をよく読めば普通にわかるんだけど、随分と誤解を招きやすい文章だなぁと思った。
個人としての2ちゃんねらと、団体としての2ちゃんねらも、ごちゃごちゃして混乱しやすいところだし。
私は、彼らが「悪意」に基づいているとは考えない。彼らは常に「善意」なのである。折り鶴やゴミ拾いはストレートな善意、逆に祭りとして叩く対象は「社会悪」であり、それを糾弾して社会をよくしようという「善意」なのである。
自分たちは「社会正義」である、したがって、社会正義に反するものを叩くのは正しいし、世の中のためなのだ――それが彼らの「2ちゃんねる型正義感」の根底にある。
んー、まあ同意、かな?
2ちゃんねるの、というよりは活動している団体の、であると思うなー。
反発しあう団体も内包しているのが2ちゃんねるだからね。
その場合「正義」という単語よりも「大義名分」のほうが分かりやすいかな~思う。
こっちのほうが意味広い気がするし。
(まあ絵文録ことのはさんも、同じ意味で使っていると思うので大丈夫だと思いますが。)
簡単に言っちゃえば、単純に祭りが起こるだけよりも、悪人がいる!あいつを倒そうー!と盛り上がるほうが活動している側にとって楽しいというわけだよねー。
うん、そういうのはよくあるよね。
それで、次に
ここで私自身の考え方の傾向について述べておく。それは「社会正義」を標榜する人たちが大嫌いだということだ。
(中略)
「自分の考え」を「社会はみんなこう考える」とすり替えて押しつけたり、あるいは「世間ではこう考えている」ということを振りかざして、あたかも自分の「正義」が普遍的なものであるかのごとく振る舞う人は、大嫌いである。
自分としては「真偽」と「好き嫌い」についてははっきり主張するものの、「正邪/善悪」については採用しない。事実に合致しているか否かについては検証すればわかるし、好き嫌いについては他人からとやかく言われる筋合いでもないからだ。
これはあまり同意できない。
善悪が絶対的指標にならないのは非常に同意できるけど、自分が○○が嫌いである、という主張は反証可能性において、著しく議論のルールを侵している。
例えば「私はAさんが嫌いだと思います!」という主張について、他の人がいかにAさんのすばらしさを挙げてやっても「でも私はAさんが嫌いなんで」で、終わりになっちゃうよね。
感情や個人思想を原点に議論を展開するのは、絶対に反論されない防御を敷くもので、最初から議論の土台にあがっていないのと一緒。
神の有無の議論中に「でも私は信じている」と言い出すのと同じく不毛。
インテリジェントデザイン理論の人も同じようなこと(世界観の違いである、とか)を言う。
それにも関わらず、まるで議論のように話を展開するのであれば、結局、絶対的な正義を持ち出すのと同じだと思う。
不可侵なものを自分の外に作るか、中に作るかの違いしか無い。
善悪が絶対的なものではないのは、仕方ないとして、だからと言って何の役にも立たないというわけではない。
少なくとも、議論をしている間での利害の一致上に成り立つことはある。
例えば僕は、2ちゃんねるが無くなるのは困る。
お気に入りのスレもあるし、面白いAAストーリーもまだ連載中だ。
で、vipperの多くの人も、2ちゃんねるが無くなるのはちょっと困ると思う。
ということは僕とvipperの人たちで「2ちゃんねるの維持を助けるのは善」という認識は成り立つわけだよね。
そこで、例えばvipperの人は2ちゃんねるの維持のために~、と何らかの活動をしたりして、僕は逆にその活動は2ちゃんねるのためにならないよ~、と反論したりとかいうことをよくする。
だからお互いに同意できる原点があって、その上で違う部分を議論することはできるわけ。
僕は感情こそ善悪にも劣る判断基準だと思っている。
善悪というのはシステムで、それは教育のためだったり社会維持のためだったり、とにかく長年かけて調整されてきたもので、確かに改変が遅いものだから今の社会に合致しないことは多々あって、妄信するのは非常に危険な代物だけど、それでもかなりの価値がある。
対して感情や好き嫌いというのは、たかだか、まあ年齢によるけど十数年から数十年くらいの推敲しか持っていない。薄いものだ。
大体、私はこう思う、あなたはこう思う、それでおしまい、というのは議論する意味が無いじゃない?
じゃあどうするのかっていうと上にも書いたけど、合致する目標と、事実と予想、によって議論は成り立つべきだと思うの。
今回の話で言えば、活動する2ちゃんねらーに対して、おまえら嫌いだからその活動やめろ!って言うのは本当に、意味の無い行動で、そんなことでやめるわけないじゃん?
相手が善意で動いてるってところまで理解できているのなら、僕はその活動によるデメリットと、むしろこういう活動をしたほうがいいだとか、その根本にある善悪にこういう間違いが含まれているか、活動を続ければどういうことになるのかとか、そういうところを指摘する。(参照)
少なくとも、善意そのものがすぐさま間違いになるとは言わないし、帰属意識だって(それそのものは)否定しないよ。
合致する目的だって、原理へ潜って、潜って、社会維持とか世界維持とかいうところまで行ってしまえば(んな話には滅多にならないけど)少なくとも共通目標は持てる。
帰属意識も悪くないし、善意も悪くないなら、じゃあ何が悪いのよ?っていうと、
「考えなしの行動」
に尽きるわけだと思う。
2ちゃんねる用語で言えば、ちょっと古いけどDQNな行動。(DQN=不良)
おもしれぇ~とか言って数人で固まって暴走するのってリアルなDQNの行動に似てない?
まあ考えるのは面倒だしさ、理論的なのも面倒だからさ、わからないでもないけど。
殆どの場合考えなしの行動って軸をずれて悪い(本人や周りにとって)方向に進んでいくこともあるじゃない?
それで、考えなしにこれは正義だ!とか思ってるとその危険は高い、と。
人の話聞かなくなるしね。
だから、その部分について、例えばここが考えたらずで間違ってるよ、その正義はこういう理由でおかしいよ、そんなことするとこうなっちゃうよ、って指摘するのは議論になると思うんだけどもどうだろうね?
相手が自分の正義を絶対的だと思ってる場合、その人は本当にそう思っているのであって、別に責任転嫁を意識的にしようとしているわけではないと思う。
ここまでは当然だよね?と思っちゃって、それじゃあ~・・・と話しているところへ出てって、それは当然じゃない!絶対的に決め付けるな、責任転嫁するなムキー!って怒られても困る。
それは絶対的じゃないんじゃない?と言い出すことから議論は始まるのだから、例外を知らずに無意識に全体の正義だと思っていること自体を卑下するのはおかしいと思う。
その上さらに人の話を聞かないのは責められるものかもしれないけど。
疲れたし他の人が先に書いちゃったからリンク貼って終わり~
おいらは帰属意識自体はそんなに嫌いじゃないのですよ。: 国民宿舎はらぺこ 大浴場
トラバより
感情表明は議論の入口である。: 国民宿舎はらぺこ 大浴場論が終始感情論のみで継続するのは有益ではないけれども、議論の起こるきっかけが感情の表明であるというのはダメとは思わないし、むしろその方が議論の展開としてはよっぽど自然なんじゃないかと思う。
もちろんそのとおりです。
好き嫌いの表明だけを悪いとは思いません。
ただ、今回の場合、2ちゃんねらに絶対正義の普遍化があるということを卑下しつつ、自分は好き嫌いを持ち出すことをより高次としているのであれば、それは間違いである、という批判ですね。
はてブより
はてなブックマーク - しっぽのブログ: 『2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ』についてその通りなのだけど、善悪の相対化の果てに持ち出される「絶対正義」を相対化するには「俺は嫌いだ」しかないのかなぁ、とか。
そんなこと無いと思いますよ~。
要は相手に向かって「私は嫌いだ」というのではなく、「私とあなたはこれが嫌いだ、だからこうしよう」というのは可能なわけです。
100%世界を証明する必要は、現実問題として無いので、そういう方法で対話は可能になるわけです。
コメント
1128 投稿者: ハズカシ (2007年01月14日 19:06)
こら!サボるんじゃあありませんっ!!!働けー!働けー!!
1129 投稿者: weep (2007年01月14日 23:28)
ああ、のまネコ問題の某歌手の名前にそっくりの100円ライターか。
そいつ、あめざーだからキニスンナ。
1132 投稿者: しっぽ ◆fdGP2uSVfg (2007年01月15日 01:14)
いや、あめざーがどうの、という括り方はしたくないかなー。
1136 投稿者: 紗羅 (2007年01月18日 03:34)
悪者を見つけたら、集団で容赦無しに攻撃する。しかも素顔を隠して。それで、自分達は正義を実行したのだと謳う。
「社会的正義」というのは「正義という名の隠れ蓑」ということでしょうか。
この方が嫌悪感を覚える、という趣旨は良くわかる気がします。私も嫌悪感を覚えます。
そういう「社会的正義」は「悪」だ、といってしまうと、議論が空転してしまう故に、この方は「好き嫌い」という基準を出した、ということでしょう。
ただ、わざわざそのような基準を立てなくても、「正義を隠れ蓑にすることは間違っている。」と言いきってしまえばそれでよかったような気がします。
しかし、そういうことは2ちゃんねらーに限ったことではなく、人間というのが、そもそもそういう醜い面を持った生き物なのだと私は思いますが。
1137 投稿者: weep (2007年01月18日 10:46)
松永氏は2chを長文で叩くのがお仕事なんで察してあげて。。と言うことです。
おいらのサイト(盗使哀)を書籍の売名行為に利用した疑いがあり、いい気分じゃない。
1138 投稿者: 松永 (2007年01月18日 12:51)
誰かと思えば貴様か。
のまネコ記事を「売名行為」と判断している頭の悪い連中とは話にならない。のまネコ記事を書いたら売名行為って、アホか。原稿は依頼されたから書いたのだ。別にこちらから売り込んだわけでも何でもない。
それどころか、9月には「この問題を風化させてはいけない」と言っていながら、1月に文章を依頼されたら「今頃取り上げるのは売名行為」って、それ風化してるやん!と吹き出したのでした。
「2chを長文で叩くのがお仕事」とか、なんか「エイベックスからカネをもらっている」的なアホな発言だよなあ。
1139 投稿者: 松永 (2007年01月19日 00:53)
上のコメントは、weepというおかしな人に向けた話だから気にしないで>しっぽの人
本文についてまじめに書いておくと、責任転嫁が無意識であっても、それはどうなの?という話。
で、好き嫌いというのは、相手の価値観の価値を否定しない。正義は「そのような考え方はいけない」というわけでしょ。でも、好き嫌いというのは「そのような考え方は存在しうるけど、自分は選びたくない」という話。要するに選択。その選択は、私は認めてるわけです。選択しない価値観の存在と、自分の中の選択とか。
で、たとえば社会の判断(というものは実は仮想だけど、でも一応存在するとして)を考慮しつつ、最終的に自分が主体的にその価値観を選び、そう判断した責任は自分の中にある、というならそれはそれでいいわけです。でも、そうじゃなくて、社会がいいと言っていたとか、時代はそうだったとか、世間は許さないとか、そういう責任転嫁はやっぱり好きになれない。自分はやりたくない。自分がもし無意識的にやりそうになったら、それは自分にツッコミたい。
とまあそういう話なので、ここに書いておきます。
1141 投稿者: bb (2007年01月19日 22:21)
以前の自分の考え方は間違っていた。
それは全て自分の責任です。
って言い切るのもなんか卑怯な気もするなぁ。
1143 投稿者: しっぽ ◆fdGP2uSVfg (2007年01月22日 05:41)
こんにちは。
松永さんにコメントをつけていただけるとは、かなり光栄なことと思います。
随分と遅れてしまいましたが僕の考えとしてコメントを返させていただきます。
松永さんが再度この欄をご覧になることを期待しまして。
確かに正義はわかりにくく、実際の理想的な定義上の正義と著しくかけ離れていることもあり、危険な部分が多くあります。
しかしそれは、未来の予測が難しいのと同じ理由でただ単に非常に難しいことであり、答えを探すのに時間がかかるからです。
それを正義や社会利益を理由とする行動をひとくくりに、悪いこととしてしまうのはいかがでしょうか?
実際はもっとずっと複雑なはずです。
松永さんの文章においては、まるで社会の利益を理由に持ち出すことが全て幼稚な理論であると読み取れてしまうように思います。
多くの人間は責任転嫁のために社会といった要素を持ち出しているわけではないのでは、とも思います。
一つに、社会の判断(もしくは社会の利益)を理由に挙げることは、それを責任の所在とするのではなく、説得の材料にするということがあります。
極端な例(あくまで例)を挙げますと、例えば核の廃棄についての議論において、核は世界を破壊する要素を持つと主張する理論と、私は核が嫌いだからと主張する場合でどちらが説得力があるでしょうか?
個人の感情による選択で他を動かすことはできません。
個人の感情をただ露呈したいのであればそれで良いかもしれませんが、多くの場合、人は他を変えるために発言をします。
そのために、自分の利益や好嫌だけを主張するのではなく、私とあなた(あなたが不特定多数の場合、つまり社会)にとって、いかに利益があるか、いかに良い未来が作れるかを語り考えること、これが詰まるところ議論になります。
ですから、社会が(不特定多数のあなたが)何を求めている現状がありえるのか?私と社会の利益がお互いに最も高くなる場所(つまりWin-Win)はどこにあるのか?そういうことを理論の基礎にするのは極めて正しいことであると思います。
もちろんそれは、綿密な調査と事実関係、時間と多くの人間が無ければ辿り付けないものではありますが・・・。
逆に自分は嫌いではあるが、(統計上、経済学的や物理的に見て)社会の利益としてこれは正しい、というものも存在するはずです。
僕はその場合、社会の利益としての選択を主張するようにします。
例えば僕はJASRACが大変嫌いですが、その機関が日本の著作権市場や世界経済の戦いの中において一定の利益をもたらし、これからも必要な面があることを認めています。
心底そんなことはあってくれては嫌なのですが、事実は仕方ありません。
これを自分の嫌いな相手であるから、その利益を無いことにしてしまうのであれば極めて程度の低いことです。
松永さんは発言の責任について重要視をしているように思います。
しかし、発言の正しさと責任の所在は関係無いことですし、無責任は事実の解明に非常に重要な要素を持つ場合があります。
匿名ワールドが時に本当に正しいことを見つけることがあることを、松永さんはご存知のはずです。
また、社会の利益を理由に持ち出しても発言の責任を個人が負うことはできているはずです。
それはその「社会の判断」の認識を正確に行っているという保障に対する責任です。
例えばある新聞が「世間ではこれが求められている」と発言したが、それが読者からして「おかしいな」と思われる内容ではメディアの信憑性が下がっていくわけです。
社会の判断というものは、書き手が自由に弄れ、責任を簡単に転嫁できる、そのようなものではないと思います。
最後に、weepさんとのやり取りは、僕がこう言える立場にあるのかわかりませんが、あまりよろしくないと思いました。
全体的に否定的な意見になってしまいましたが、参考になる意見も多くありました。
これからも記事のほう頑張っていただければと思います。