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2006年12月20日

 感情論と議論と水戸黄門の印籠とこのエントリーを含むはてなブックマーク

この前のエントリgreenさんのところへトラックバックしつつ

例えばペド性愛とか獣愛者とか猟奇なことに性的快感を持つ人(つまり吉良吉影問題の一番高い部分)についてはあまり論じられないから、そこは問題だと思う。

とか偉そうに言ったら
green - 小児性愛考
ってな具合に反応いただきまして、それが
green - 小児性愛者に対する敵意
green - 理不尽と理不尽の対立
っていう具合に、トラックバックがそれなりに行き交うことになっているのにもこっちは気づかず、無反応だった不誠実さに今更気づいたもので。

あまり練られていない記事なため、雑記です。

greenさんのブログはとっても理論的な文章を書く人で、理論大好きな僕としては非常に親和性が高いので、読んでて楽しいんですが、他の人に勧めてもそうはならないのが悲しいところ。

特にそれを思ったのが
green - 理不尽と理不尽の対立
からリンクされている
heartbreaking. 性的虐待を受けた時点で性的知識が備わっていたか否かで、その子が犯行中に感じた恐怖心の大きさが解る
の記事を見たときで、
結局のところこういった記事がより世論の支持を集めるのだろうなという、ある種の無力さというか、遠さを感じた。

もちろんheartbreakingさんのほうは、別に感情論や詭弁を使って議論を破綻させてどうのこうのっていうわけではなく、
それはここら辺のコメントとかを見てもわかるだろうけども。
今回言いたいのはちょっと別のこと。

なんか案外と・・・

ここの「つららつらりと。突っ込めない秘所に潜り込んで差別を言うこと」以下にも書いてあることなので引用させてもらうと

正当な理由もなしに、「親御さんの心境」で小児性愛者を排除するということは、ある層が抱く不安等に、ある人(この場合マイノリティ)が屈しなければならないという証。
そのようなものを許すのは果たして高い民度と言えるのかな?
(中略)
根拠を必要とする問題に、線引きをして暗黙の領域を作るのはフェアではない。中立的立場で取り扱わないといけないものを題材にする時に、感情論や親であるあという特質を盾にするのは不当だ。と思うのだ。

僕はもう、ほとんどの問題においてこればかりが、いつも最後に付きまとって苦心する。
それは今までの嫌儲の話から、日韓問題とか、牛乳が有害だとか、ゲームを規制するだのどうだのっていう話とか、著作権の話についてもいっつもそうだ。
ちょうど著作権の話でいい例があったから紹介させてもらう。

ITmedia News:著作権保護期間は延長すべきか 賛否めぐり議論白熱 (2/3)

 「太宰治さんの作品は、妻子の存命中に著作権が切れた。生きている間に著作権が切れるのは、奥さんや娘さんにとっても寂しいことではないか」――三田さんはこう訴える。「娘さんは残りの人生、父親の著作権が切れたまま生きなくてはならない」(三田さん)

 零士さんも、若死にした作家の遺族を引き合いに出す。「若くして亡くなった作家の妻に『あと数年で主人の著作権が切れるんです』と涙ながらに訴えられた時にどう思うか。作家は一生浪人、生涯孤独な存在。創作のために心血を注ぎ、自分のため、家族のために頑張る。頑張った成果はせめて子孫の代まで残したいもの。年若くして亡くなった友人の子どもを見るたび胸が痛む。70年でも短いぐらいだ」(零士さん)

著作権の話はネットユーザーのほとんどが、ここで挙げた人に反対する立場であるから、この理屈には色々な突込みが入っているしわかりやすいだろうと思う。
早い話が著作権は表現の発展と、正当な利益を守るために存在するもので、遺族の思い出とか、子供の養育費のためにあるものじゃないから、こんなのぜんぜん議論になってさえいない。
でもどうしてだか、(これは僕にとってはとても理解に苦しむのだけども)こういう理屈は世間一般から見れば、温かみのあって、人間味のあって、真面目な意見なんだそうな。
僕はそれに対していつも、もやもやした感情を抱かずにはいられない。

著作権の話ならこの僕のもやもやに同意してくれる人は多いのだけど、それが例えば「どうして人を殺してはいけないのか?」とか「小児性愛は犯罪か?」とか「人間を動物として見る場合の拒否反応について」とかいう話になればガクっと激減する。
そりゃあ、僕もそういう感情は大いにわかる。
でも、その感情と議論とは別でしょ・・・とか言うと僕は冷たい人間らしい。
それ自体は別にいいけど、僕が冷たいかどうかと、議論の正しさは関係ないでしょ?と言っても通じない。

上のほうで挙げたような、例えば実際の被害にあった人間の様子を持ち出すとか、人の情を引く想定を持ち出して議論に組み込むという手法は、ある側面から見れば実際の現場を知る上で非常に重要であり、理解を深めるという良い面はある。
ただそれが、水戸黄門の印籠のような使われ方をされるのが殆どで、僕が例えば「殺人犯でも死刑にすればいいってもんじゃないじゃない」とか言うと
「おまえは被害者の人の前でもそんなことが言えるのか!」
という人が必ず出てくる。(被害者の前で言えるかどうかは別の問題だよねぇ・・・)
相手が著しく傷ついている場合はそれをさらに傷つける発言は許されないという、暗黙のルールを引っ張り出してきて相手の発言を止める行為だと思う。
そうしようという意図があろうと無かろうとね。

よく天気予報に例えるのだけど、正確な数値と未来予測によって、いろんな人に今日はどう行動すべきかを示すのが最も多くの人の利益になる。
そこで「明日は雨は嫌だから晴れにしよう!」とかでは通じない。
「明日は息子の運動会なんだ、今日まで一生懸命練習してきて、絶対みんなで優勝するって張り切って。今月転校するから最後の運動会なんだよ!子供の気持ちがお前にわかるのか!」
とか言うようでは話にならない。


問題としたいのは、こういった人間性とか道徳とかを、理論や数値よりもはるかに上位のものとして見る風潮ではないかなと、そういうことを言いたいのです。はい。
基本的には教育やメディアで染み付いたものだろうなぁと思います。
それに、理論や数値はつまらないけど、人間性や道徳はエピソードとして感動できるからね。

いつかはこの部分を解決しなければいけないと思うのだけども、僕には未だに、こういう人間性とかを前面に押し出して話をする人を納得させる方法を発見していません。
「クラブきっず」と吉良吉影問題のコメント欄で、そういう人に出会ったので、気合入れて長~い文章をわかりやすく、図を交えて語ってみたのですが、やっぱり失敗みたいで2度と顔を出していただけませんでした。
悲しいです。
だれか、いったいどうしたらこの問題を解決できるのかわかる人はいらっしゃいませんかね・・・。

本題と関係ない部分ですが

読んだ本を記録するトコ+α

どうも幼児性愛者には男しかいないような議論(ここだけじゃなく世間一般で)がされてるのは気になるなー。
女性で小さい女の子しか好きになれない人もいるんだけど、そういうのってどうなってるんだろ?

子供に注意する時でも「怪しい人についていかないように」って言うけど、そういう時ってみんな意識してか、しないでか大抵の場合男性を考えてると思うんだよね。

「どうも爬虫類に欲情する人間については語られないけど、なんでなんだろうね?」という質問と同値であると思います。
発生件数不足、社会影響の弱さ、実例不足なだけかと。

質問ではなく、そういう人についても考えようよ!という提案なら、それはよいことだと思います。

はてブ返信
2006/12/21 19:59 Tskk ↓hasigotanさんのコメントへのつっこみ。被害者以外が被害者感情を持ち出すのは反則だろう。現代は実質的な安全よりも感情的な安心が求められる、感情が優先しすぎる時代。

2006/12/21 14:42 hashigotan [個人的に] やはり実体験をした被害者感情に勝るものはないだろうと思います。ただ、語らず口をつぐんでいる被害者がほとんどだということも考えていただければと思います ↑・・?そ、そうですか・・・
※はてブは下から順番に投稿され、また、後でコメントを書き換えることができます。

うん、まあTskkさんが言ってくれているんですが、どうしてこの記事を読んだ後にhashigotanさんがこういうコメントをつけたのか、かなり悩んでいるんです・・・。
繰り返しの説明になっちゃいますけど、社会のルールは、一部の悲劇とドキュメンタリーに感動した人たちによって作られるものであってはいけないと思うんですね。
そういうのを「扇動」と言います。
極端なことを言えばナチス政権においていかにユダヤ人が悪行を繰り返し、それによってどんな悲劇があったかを語ることで、ユダヤ人虐殺が正当化されたりとかと同じです。(実際にそういう悲劇があったかどうかは関係の無い話です。というか、リアリティが無いといけないので、おそらく一部では実際にあった話なのでしょう。)
戦争の開始時も大体こういう感じに、いかに敵が残虐か、国民がどのような悲劇に見舞われるかのドキュメンタリーが用いられます。

悲劇とか実体験とか怒りの感情はわかりやすく、その方向は大抵間違っていて非常に危険です。
完全に機械になれと言う訳ではないですが、少し距離をとって考えなければいけないと思います。

コメント

911   投稿者: 小泉 (2006年12月21日 01:29)

>人間性とかを前面に押し出して話をする人を納得させる方法
あるんでしょうか。
僕は諦めてますけど。
金融とか投資でカネを稼ぐのが悪いこと
みたいな風潮も若干これに似てますね。

しっぽさんの、若干尖ったエントリ(別に尖ってはいないのですが、そう思う人が多い、という意味です)を見る度に、「解る人だけに向けてかけば、もっと簡潔にまとまるのに」と思ってしまいます。解らない人は、何を言っても解らないですよ。日本は、占いや心霊写真や血液型別性格診断を信じて疑わない大学生が沢山いる国なのですから(笑)

913   投稿者: しっぽ (2006年12月22日 01:15)

まあ僕のブログでの社会系のエントリの殆どの目的が
「いろんな人に正確に自分の考えを伝える方法を探す」
だったりするので、そういうエントリになるのだと思います。

わかる人だけにわかる記事って、はてなをちょっと探せば結構書いているようなので、別に僕がしなくてももっといいとこがあるんですよw
だから僕としてはこのブログは、そういった人たちにも(一部に)納得してもらえるものを目指そうかなぁと。

1000   投稿者: do (2007年01月06日 19:09)

はじめまして。面白く読ませていただきました。
著作権でこんなのが話題になっているんですね。

私はどちらかといえば人間性とか道徳を理論や数値とは切り離すべきではない
と考えています。しっぽさんの記事の全てを読んでいるわけではないのですが
もしかしたら異った立場にあるのかもしれません。

しっぽさんは、
>人間性とか道徳とかを、理論や数値よりもはるかに上位のものとして見る風潮
と書かれていますが、私はどちらかというと理論や数値が人間性とか道徳より
も上に見られてしまっている、と感じる機会の方が多いです。

実はしっぽさんの全文を読んでいるわけではありませんので、人間性や道徳、
理論や数値のとらえ方そのものもよく分かっていません。したがって感想を交
えながら自分の考えも整理していきたいと思います。

まず私は、
>「おまえは被害者の人の前でもそんなことが言えるのか!」
結論としてはしっぽさんと同意です。私もやはりこの言葉はおかしいと思いま
す。ただ、これが人間性や道徳を上位に持ってきているのだと言われると違和
感を覚えます。もし私がしっぽさんの立場であれば即座に
「じゃああなたは加害者(の親族など)の前でそんなこと(死刑にすること)が言えるのか!」
と言い返してしまい、ドロヌマの論争になります。「被害者の前でも…」と発言する人は
被害者に感情移入はできていますが、加害者については「そこらを歩いている普通の人かもし
れない」という感覚すら無いのがほとんどです。
理論以前に、あの立場の人だったらどう思い、この立場の人だったらどう思う
のか、という公平な感覚が抜けています。

ある人間を殺したのだからその人間は殺されて当然だ、という考えが人間性や
道徳性である、と断定することについて私は躊躇します。また、「現在の世の
中の趨勢とされているものは即ち人間性であり道徳性である」として良いのか
どうかという問題もあるでしょう。

次の、
>「明日は息子の運動会なんだ、今日まで一生懸命練習してきて、絶対みんな
>で優勝するって張り切って。今月転校するから最後の運動会なんだよ!子供
>の気持ちがお前にわかるのか!」
も上と同じであり、日照り続きでやきもきしている農家の例を出すまでもなく、
「自分が正しいと言うから正しいのだ」という内容に過ぎません。問題になると
すればこれらの発言をした人間の人間性であるように思っています。

さて、
>著作権は表現の発展と、正当な利益を守るために存在するもので、遺族の思
>い出とか、子供の養育費のためにあるものじゃない
という部分ですが、これは「養育費のためだけにあるんじゃない」ということを
書いたものとして理解します。というのは、著作権(著作者の権利)によって得
た利益を子供の養育費にあてようが、思い出?にあてようが権利者の自由であ
るように私はとらえているからです。

その上で、三田氏なり零士氏なりの議論が「議論になっていない」のは私も同
じ意見です。が、それは上の二つの例で言う、
「私が正しいと言ったら正しいのだ」
と言っているに過ぎないからです。これはニュートラルな人間性や道徳性とは
違うと私は考えています。一言で言えば「我がままを言っている」レベルです。

私自身は若いうちに死んだ作者の例を出すこと自体は間違っているとは考えて
いません。少なくとも残された家族を養うための経費を著作権の正当な利益の
うちに含めるかどうかは個人的に議論を要すると思っています。

この二人の問題点はそこではなくこうした例を引き出し、それが一般的なのか
あるいは特殊的な事柄なのか提示しないままに、著作権に関わるものが例外な
く一律に「死後70年であるべきだ」と言っていることです。

もし死後50年の著作権存続期間の場合は若いうちに死んだ作者が可哀想だとい
うことであれば、著作権の存続期間を例えば現在の平均寿命80年に50年を足し
て「生後130年」とすれば良いという意見もあるかもしれません。そうすれば
零士氏の胸が痛むこともないかもしれません。

人間性とかを前面に押し出して話をする人を納得させる方法というのは私も困
難だと思います。

しかし、だからと言って「どうせ分からないから話しても無駄」と切り捨てて
しまうのであれば、本人がどのように言おうとも、話す瞬間の本人の尺度だけ
で他人を計るという点で「私が正しいと言ったら正しいのだ」と言っているに
過ぎないことは常に留意する必要がある、というのが大げさですけれども私の
人生訓です。

もし究極にどこまでも理論的に相手と話をするのであれば、1+1=2の証明(実は
難しいらしいですが)からはじめなくてはいけません。現実にそのような時間
が無い以上、どのような哲学者や科学者であれ、どこかで必ず証明されしきっ
ていないルールを前提に置いているはずだ、と考えようと思っています。(こ
こで言う「証明されしきっていない」ことというのは、これを書いている「私
自身が証明式を追って確認していない」ということです。なぜなら、いくら
「証明されている」と言われてもそれは伝達された知識に過ぎず、「確かに正
しい」と断定する理由にはならないからです)。

例えば上で血液型占いのことを書かれている人がいます。本当に日本だけなの
かとか書くつもりはありません。もし上を前提とし、仮に血液型占いが非合理
で非科学的なものでありその結果非合理であるとしても、これは血液型占いを
信じる人物が骨の髄まで非合理的な人間なのか、あるいはその人物の非合理的
な部分が血液型占いでありそれがたまたま日本人の大学生に多いだけなのかは
判断する必要は無いでしょうか。百歩譲って上のコメントの方がそれを判断で
きていたとして、それを上のコメントに書く必要は無いでしょうか。

にも関わらず上のコメントを読んですんなり納得できている人はしっぽさんが
本文で書かれた会話(子供の気持が分かるか晴だ)が納得できる人です。素直に
「血液型を信じる人間は不合理だ」という文章を信じることができている人で
す。

合理的でないからダメだ、ということを言いたいわけではありません。そうで
はなくて不合理なのが当たり前であるということです。もし上の血液型のコメ
ントを読んでそれを納得できるのだとしたら、上の不確実(証明されていない)
情報を証明されていない情報のまま処理しているということです。私から見れ
ば上のコメントは、「日本人(特に大学生)は不合理だから不合理だ。したがっ
て何を言っても無駄」と見えます。

こういった意味の文を読んで納得できるという人は、実は「相手は不合理だか
ら何を言っても無駄」ということに納得しているのではなく、「ああ、この人
も自分と同じ経験をしているんだろうなあ。きっと同じ考えなのだろうな。」
ということに納得しているのではないでしょうか? だとすれば、このことを
無視するべきではない、ということが私の言いたいことです。こういった意味
での人間性を私は重視します。

ここからは私の素直な気持ちです。科学であれ理論であれ道徳であれ、全ての
基礎となっているのは「自己と他者は同じである」というスタートラインです。
例えば他人を殺してはいけない、というのは一般的な道徳のルールの一つです。
これは「自分を殺せないならば他人を殺してはいけない」ということであり、
これも自他同一性の原理に基づいていると私は考えています。なお戦争で人を
殺すのはこの道徳に適用されない場合が多いようです。大抵の場合は敵は(上
で言う)他者として認識されません。極端な例が日本の「鬼畜米英」という言
葉です。

もちろんこの自他同一性の原理そのものも議論の対象となるべきです。哲学で
は現在も自己と他者は大きなテーマでしょう。私にとっても大きな関心事であ
り、一生のテーマです。

しかし「血液型を信じるからダメだ」とか「幽霊を信じるからダメだ」程度で
相手を切離していたら議論にならないでしょう。何故ならその人自身がそもそ
も自分の土俵でしか議論するつもりが無いからです。

これは何度も書いた私の考えですが、本当に理論的で証明されつくした議論を
するためには人生が何百年あっても足りません。これを有効な時間内におさめ
ようと思うのならば、非常に陳腐ですけれどもお互いに歩み寄る必要がありま
す。証明され尽くす議論、物の存在証明からはじめて1+1=2を経過し、…とい
う膨大な量の中から見れば、私のような平凡な人間が歩み寄る距離なぞほんの
わずかです。

これこそ何も根拠はありませんが、これだけのわずかな歩み寄りで相手と対話
し議論できることを私はありがたいと思っています。だからこそ天気予報が雨
であるにも関わらず「明日は晴にする」と言われれば、私は「そうですよね」
からはじめて、ゆっくりと話して最終的に相手の「農家も日照り続きで大変だ
とは思うけれどもね」という言葉程度におさめ、それとなく相手がそれ用の心
がまえというか、準備もできるようにしてあげれば充分に天気予報の意義も果
たせるし、私の意図したことも通じるかなと思います。

そのためには相手のことをよく聞き、相手の状況を把握する必要がありますが、
一番大事なのは自分の考えている程度のことは相手も考えていると思うことで
す。

私は著作権のことは知りませんが、零士氏が70年一律に引っかかっていないと
は思いません。もしかしたら論理的におかしいことは承知しながら言っている
可能性もあります。だとすれば、その言葉の裏にはもしかしたら「自分の家族
のことも心配なんだからなるべく長く」という思いがあるのかもしれません。
このあたりは実際に話してみないと分からないでしょう。しかしもし零士のこ
とについて議論するつもりであれば、零士の他の言葉も拾わなければ不公平か
な、という気持ちは持っていてもおかしくないでしょう。

私は議論がうまくないし、単なる凡人だと思っています。
が、しっぽさんの言葉でちょっと心配な部分もあります。

>でも、その感情と議論とは別でしょ・・・とか言うと僕は冷たい人間らしい。
「冷たい」ことに誇りを持ってはいけないです。

>でも、その感情と議論とは別でしょ
この時点で相手が「冷たい」と思うのは不思議ではありません。
緻密な議論を目指すのであれば、感情とか議論とかいう言葉を再定義する必要があるはずです。
この再定義の作業は相手も参加した上で行なわなければなりません。
そうでないと「議論」になりません。
一方的に上のように言い放ってしまうと、
相手に「議論するなら私に合わせるべきだ。そうでないならば口を閉ざすべきだ」
と言っているのと同じです。
建設的な議論をしようと思うのならば時には自分の一切の常識を捨てさる勇気が必要です。

非常に長いわりにわけの分からない文章であることをお詫びします。
これで非難しているように捉えられたとしたら全て私の文章が稚拙のためです。
これからも応援しています。長い文章を読んでいただきありがとうございました。

1092   投稿者: しっぽ ◆fdGP2uSVfg (2007年01月08日 00:04)

うーん、ちょっと長くて全部返せないのですが、
「冷たい」ことに誇りを持ってはいないですよ。
どっちかというと、冷たいと言われて残念というニュアンスですね。

あと、事実かどうかの前提のところで言えば、幾つか考慮したいこととして
・完全に正しいというものは無くとも、99%以上正しいというものは存在し、科学的にそれは正しいと言って良いものもある。
・「沢山いる」という表現には、「他と比べてたくさん」「過半数以上」「10人以上を沢山と表現する」等の意味合いがあるので、一概に言えない。
というところでしょうか。

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(サーバーが見つかりませんの表示になることがありますが、
正しく投稿されてることが多いです。
落ち着いて確認してみてください。)

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