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2006年07月23日

 存在するモノの法則3。善悪の原論。このエントリーを含むはてなブックマーク

しばらくエントリー投稿が途絶えてしまっていて、まあ本来このブログはそういうところなのですが、ずーっと多忙だったのとこのエントリーが僕の中では中核で重要なトコロでして、僕の中にはしっかりと理論はあるのにいざ文章にしてみると、うーん飲み込みにくいだろうなぁと思ってしまうことが多々ありまして、何度か書き換えてみるものの3度書き換えれば元に戻るなんてものでして結局意味も無いし、麦茶にブログを乗っ取られるの流石にまずいんじゃないかということで、やーっとこさ続きのエントリーを公開いたす次第でありまして、ちなみにこの文が妙に長いのは直前にそういう文章を読みふけったから、という影響されやすいしっぽです。
こんにちは。

この前からしっぽ論「存在するモノの法則」と題打って電波を垂れ流していたわけですが、
コメント欄にもメールにも意外に反響もらって凄く嬉しいです。
幾つかのお答えはこのエントリー内でできるのではないかと思っています。
ただし、大変に「飲み込みにくい」理論でありますのでご注意。なるべく飲み込みやすく勤めるつもりですけどね。

まず定型文から。
このエントリはシリーズものです。以下がバックナンバーになります。
この記事の前にお読みいただくと嬉しいですねー。
存在するモノの法則1。動物が生きようとする理由。
存在するモノの法則2。人を殺してはいけない理由。

絵とかは可読性を向上させる効果があるので、後で入れるかもしれません。
文章表現は主張が変わらない程度に何回か加筆修正すると思います。

メール

最初に。
コメント欄はみんなが見れるからいいんですけど、メールでいただいたことをちょっと。
(名前出していいのかわかんないので出さないことにします。)
「哲学ではなく科学ですか?」という意味の質問(?)もらいました。
端的に言ってYesのつもりです。
ただし、科学の領域に入るほどの統計や証拠、反証可能性を持っているわけではないのですけど、質問はそんなところではないですよね。
僕としては神様ってものを信じていませんし、生命の尊厳とか道徳観に唯一無二の絶対存在性とかがあるとも思っていませんし、魂とか来世とか天国地獄も信じていません。というか「無くても一緒」と思っているわけですよ。無い証拠は特にないけど、それらが無くても世界の多くには説明がつくし、あっても説明できないことは説明できないわけです。なので論じる必要性も無い。
端的に言えばオッカムの剃刀スタンスでありガーベジコレクションなわけです。
神をガーベッジ(がらくた)とは一部の人が怒り出しそうですけどねw
この「存在するモノの法則」っていうのがそもそも、科学・・・っていうか物理学っていうんですか?唯物論的な方面から切り進んで善悪を説明しようってものなので、哲学的な思想とは親和性が低いんですよ。
で、こういう部分がこの理屈を分かりにくくする原因になるんですよねー。多くの人が既に、もしくはこれから「理屈はわかるんだけどなんか納得いかない」となるような気がします、っていうか実は自分も少し、ね。
できる限りなんとか頑張りますが。

はい、では本題に入っていきましょうw
今回は人間、もしくは社会の持つ善悪感情について語っていきます。
コメント欄などに寄せられたものの、いくつかの答えになるはずです。

意識、本能と理性の発生

大昔の原始生物には私たちが呼ぶような意識というものはありませんでした。
最初に生まれたのはおそらく反射運動です。
光が当たるとうにょうにょ動いて、影の部分へ移動しようとするとか、刺激が直接運動機器に影響を与えて動いて、それによって生存率が上るというものですね。今もこういう生物がいっぱいいます。

そして生物はさらに簡単な「if文」を処理できるようになります。Aなら運動するけどAとBが一緒にあるなら運動しない、とかいう条件つきの反応ですね。より環境に合わせた運動が可能になります。
で、この「if文」がもっと複雑に集積回路となったものが脳ですね。

脳についてこんな面白い実験があります。

餌を置き、その前に柵を立てて、反対側に動物を置いて反応を見るというものです。
もちろん柵の横側から回り込めば餌が食べられます。


鶏を柵の前に置くと、餌を発見した鶏は柵に突撃します。何度も突撃をするだけで餌が取れません。
犬を柵の前に置くと、一度柵の前に行って通れないことを知り、横に回りこんで餌を取ります。
猿を柵の前に置くと、全体を眺め、柵が通れないものと判断して横に回りこんで餌を取ります。
桃太郎人間を柵の前に置けば、どうしてこんな実験をするものかと首をかしげながら、なんなく餌を取ります。

さて鶏の行動は条件によるもので、いわば本能によるものです。
犬の行動はいわゆる学習というもので、鶏のように何度も柵に向かったりしません。
猿の行動は推論です。柵を通れるか試す前に別の経験を適応し、通れないと判断を下し最初から回り込みます。
人間は猿に近いですが、もっと強力なのは言うまでもないでしょう。

脳の機能の段階は簡単に分けると、条件行動、学習行動、推論の3パターンあり、高等な行動をする生物ほど後者が強いということがわかります。私たちが普段、本能と呼んでいるものはこのうち条件行動の部分。
本能はプログラム(programとは「予め定められている」の意)であり、遺伝子にその情報が組み込まれているものです。何も教育を受けていない子供でも、危険が迫れば泣いて親に助けを求めることを知っています。
逆に学習と推論は私たちが理性と呼んでいる分野です。言うまでもなく人間にはこの部分が非常に強いわけです。
(動物に理性があるか?という問題はアメリカ、というかキリスト教の人は同意してくれないでしょうが、日本人は同意してくれる人も多いと思います。)

理性のメリット

本能には致命的な弱点があります。
それは元々遺伝子に組み込まれているものであるためにその変化の速度が非常に遅いということです。
環境の変異が起こった場合、それに本能が適応できるまでには少なくとも数世代以上はかかります。
これでは地球にたびたび起こる環境変異によって絶滅の危機があります。

そこで、本能に加えて、周囲の環境を学習して行動パターンを変化させるという学習機能が生まれます。(あ、語弊無いように言っておきますけど、これは自然淘汰の結果によって生まれるという意味です。誰の意思でもなく)
これが高度化すると、似た現象を関連付けて別の範囲の行為を適応するとか、学習の範囲そのものを学習するというメタなこともやりだします。これが人間の理性となるわけです。

ちなみに人間の本能は、すでに時代遅れを起こしています。(数千年前から殆ど進化してないですからね。)逆に理性はかなり柔軟に現代社会に適応できているように見えます。・・・というか理性が適応できる範囲が社会の変化の限界なのかもしれませんね。
本能が時代遅れになっている例はストレスとかですね。本来危険に対して体を防御したり攻撃する機能のはずが、現代の危険は身体的な防御や攻撃が必要ないためにおかしなことになっちゃってるわけです。理性はストレスを溜めない方法とかを探してなんとか整合性を保とうとしますね。

人間最大の武器。伝達と未来予測

理性の続きですけど、人間は卓越した学習能力と推論能力のほかに、固体同士で情報をやり取りして蓄積していく手段も持っています。
それらを総合してかなり長期的な未来予測をすることができます。
もっとも、未来予測は先になればなるほど正解率が落ちてしまいますが。

この2つは次の善悪の話にとっても重要になってきます。

善悪の発明

善悪ってそもそも何でしょう?
人間が生まれる前から善悪なんてものが、そこら辺に転がっていたわけではありません。
善悪は人間が考案したものです(社会に生まれたもの、でもいいでしょうけど)。そして分類の指標です。つまり人間がすでにある事象について、これは善、これは悪という分類を定めたわけです。

じゃあ何故そんなものを作り出したか?というと、それが社会の生存にとって有利だったからです。
今はともかく原始社会の時代は各個人が一人ごとに勉強をするなんていうのは無理だったんです。生命の尊厳とか家族愛だとか共同体維持のための方法をいちいち議論して考えるわけにはいきませんでした。そこで善悪という絶対指標を作り(もしくはこれが宗教という体系を成してもいい)これが善!これが悪!という教育を作ってしまう。これだけで随分とその共同体は強くなります。
もちろんこの絶対教育の度合いは生活水準に反比例します。
っていうか今の社会全てが善悪というものを持っていることからこれがどれだけ有利なものか伺えると思います。

では次にその善悪の指標が何によって定まっていたか?もちろん権力者の利益という答えもあるでしょうが、長い時間の間で、権力者が利益を振るいすぎる共同体は結果的に廃れてしまうというのは前回言ったとおり。
自然淘汰の考えから言えばより共同体を維持するルールを善悪として採用した社会が残るわけです。

端的な例を出すと、自殺を善に分類しちゃった社会は残らないわけですよ。
まあそんな社会が生まれる前に善だって言ってる人が全員死んじゃうから生まれもしないかもしれないけど。

この話、もう気づいた人もいるでしょうが人を殺してはいけない理由が生まれた流れと同じですよね。つまり人殺しも含めた全ての善悪がこのように定まっているという理論なわけです。

未来予測が絡んでくる

さらに、人間の「学習」と「推論」が関係してきます。
過去の経験から、例えばAという行動を行った共同体が不利益を被れば、すぐにその共同体と周囲の共同体はAをしてはいけないと学習します。Aが致命的であれば悪に分類します。
また過去と現在の環境の差から、Aの致命的度合いを判別します。
つまりあの時だけ悪かったのか?これからずっとAは悪いことなのか?ということ推論して善悪判断の要素とします。

ここで善悪は過去の経験からの未来予測とイコールになります。
より長い期間を生き残る、と予想できるルールが善。
そしてより広い意味での共同体を残すことができる、と予想できるルールが善。

というわけです。
(より広いというのは、例えば個人より国、国より世界という意味です。ただし国の一部と個人の全部を比較するとまた変わってきます。)
(また、ここで言っている善はいわゆる教育的善、イデオロギー的善のことです。・・・まあこの他の善悪があるかどうかは知りませんけど。)

善悪が曖昧で判断が決定的につかないのは、未来が曖昧で判断が決定的につかないから、というわけです。

結論

えー、なんとか短くまとめようと思ったんですけどね、長くなっちゃいました。
これでも色々端折ったんですが。
飛躍していると思う場所はコメント欄で言っておいてください、後で補完すると思います。
前半削ろうとも思ったんですけどね、これは意識や本能、社会ルールについて共通の認識を持ってもらうために必要不可欠なので残しちゃいました。

結論としてはこうです。

・善悪は意識的無意識的に関わらず、どう放っておいても一定の方向へ収束する。(もしくは人類が滅びるかどっちか)
・一定の方向とは、「より長い期間を生き残らせる」「より広い範囲を生き残らせる」というものである。
・これらは未来予測によって決定される(同時に人間は未来予測には過去の経験を使用する)。
・この理論は現存する善悪についてかなり適応可能。

で、これは僕の意見。
こうやって神聖さが取れた結論を出すと物凄い拒否反応を出す人がいるんじゃないかなーと心配してるんだけど、神様がどうのとか偉い人が言ったからどうとかよりも、世界がそういう仕組みで自然にそうなるっていうほうがよーっぽど美しいと思うし、尊厳を持てると思う。
この結論は善悪は意味の無いものと言っているのではなく、単純で綺麗な世界というシステムで確立した人間と社会の発展を支えてきた素晴らしいものだと思うのです。

コメントとかへの返答

幾つかの、というか主にwanさんへの返答はこのエントリで結構答えが出るんじゃないかなぁと思います。
で、えーっと他の人。

Writerさん。
>どうしてそのような集団は人を殺すことをよしとしないのか
これは人間より以前の問題ですよね?
つまり現実として人間以外の殆どの動物が同胞殺しをしない、微生物でさえこの傾向があります。
ということは少なくとも人間の作り出した道徳観やら神様やらとか、理性や社会は、基本部分では関係の無いことだということがわかります。
(いきとし生けるものには魂があって、という理論を出さない限り)
最初に同胞を殺さない、というルールが出てくる理由は本能(つまり自然淘汰によって得られた)としか言いようがないはずです。
そしてそれが社会のルールとなって理性面にも教育される。つまり2重に人殺しはいけない、というルールが存在することになります。
社会のルールが維持されたのも「それが残ったから」という理由になります。

>道路交通法はあまり守られていない(信号無視、自転車に乗ったままの横断、etc...)ですが、しかし守らなくてもいいという意見は全体において少数でしょう。
ちょっとここは変だと思います。「守らなくてもいいという意見」というのは表向きにはそう言うというものであって、実際本人らが考えているものとはむしろ違うはずです。
実際に本人たちがその状況でどう行動するのか?というほうが本人たちがどう考えているかということと同値ではないかと。
同様に、子供にはこう教えるのが正しい、というのと、実際にどうするかということも違うと思います。

>そこには規制が緩い、慣習的に守られていない、熱心に教育がなされない、などの諸所の理由があるのです。
今回のエントリーと関係しますが、これらが全て、淘汰の法則から導かれるという話なのです。
っていうか前回は交通違反の話では複雑になりすぎるので、単純な人殺しの話を出したんですけどね。
つまりこのイデオロギーとかのバランスそのものが、原始的な部分ではそれ自体が淘汰によって、高度な部分では淘汰によって生まれた選択方法によって社会において最も良い(と予想される)バランスへと収束するわけです。

>ここで、どの程度のレベルまで理由を辿って遡っていくか
このエントリーシリーズでは、物質や現象が存在し、変化を起こし、長時間によって破壊される、という法則が真であるという前提を使っています。

>両者はそもそも問題とその一要因の関係でしかなく
もちろんその通りです。そして今回のエントリーで総合的にしてみたつもりなのですがいかがでしょう?

にあにさん。
>結局しっぽさんがおっしゃることはアプローチの方向が違うだけで
>「人を殺すのがいけないってことに疑問をもってはいかーん!」って事と変わらないと思います。
そう思われたのなら上手く伝わらなかったのだと思います。
自分の文才の無さが歯がゆいです。
疑問をもってはいかーん!というのはアプローチさえしないということです。
アプローチの方向が違うだけで、という前置きがある時点でこの理屈は成り立たないと思うのですが。

>「そうできている」ってのは原因であって理由ではないですから。
そう、おそらく正にこれが、多くの人がこの理論を飲み込もうとしたときに喉に引っかかる小骨なのだと思います。
僕が最初にこの理屈を思いついたときも自分でここに引っかかっていました。

たとえ話を出しましょう、ある子供がどうして電気がつくのか?を疑問に思いました。
これに「夜でも本を読んだりできるように」と答えたとしましょう。これは「目的」としての理由です。
他の答えとしては、「発電所から電気が送られてくるから」。これは「原因」としての理由です。

どっちが正しいかという話は関係ないです。
理由には「目的」としての理由と「原因」としての理由があります。
ですが「目的」としての理由はごく限られた範囲で、つまり人間が相手である場合だけに使えます。
さらに言うと「目的」としての理由は「原因」としての理由で説明できてしまいます。つまり、脳を科学で説明できてしまう現代ではそういった手法で。
どうしてりんごが地球に落ちるのか?を「目的」の理由で説明することはできません。しかし、隣のAさんが急に歌いだした理由を「原因」の理由で説明することはできます。
(究極的には彼の脳細胞の化学物質が・・・という面倒な話にはなりますがw)
「目的」としての理由は非常に便宜的なものです。私たちは常に人間の相手をしているので、相手の目的を推測することに長けています。
しかし、本来世界は目的など持っていません。太陽が地球を照らすのは人間のため・・・でもなんでもないのです。
どうしても人間は「目的」としての理由のほうが理解しやすいらしく、「キリンの首は高いところの葉を食べるために長くなった」という説明をしたりします。本来はキリンはそんなこと考えて首を伸ばしたわけではないのですけどね。
というわけで、人間の活動を現象と捉えた瞬間に「目的」としての理由は消えてしまいます
このエントリーはそういうスタンスで語ったものであるというわけです。
長くなったんですが、まだ納得いかないと思いますw
難しいものですね。

追記
stb

コメント

658   投稿者: しっぽ (2006年07月24日 01:30)

前半やっぱいらないかなぁ・・・

659   投稿者: 小泉 (2006年07月24日 03:44)

集団の未来に渡って受けるであろう利益または不利益こそが善悪である。という考え方のようですか、この「善悪が自然的に発生する」というのが、本能的であり、非理知的ではないでしょうか?人間は推論が出来るのに条件行動で善悪をカテゴリわけしているのでしょうか。「"将来の利益"を"善"だと設定する」このプロセスを僕は条件行動的だと評価してのコメントです。

660   投稿者: しっぽ (2006年07月24日 03:57)

どうも。
少し質問の意味がわからなかったので、確認します。
僕の善悪は~という理屈が条件的ではないか?という指摘でよろしいでしょうか?
それとも条件的であるはずがないので、全体が間違いである、という指摘でしょうか?

661   投稿者: 小泉 (2006年07月24日 11:52)

本気で食って掛かってるわけではないですよ。念のため

えと、論理的に考えれば「将来の利益」と「善という概念」を独立して考えられると思うのです。現にこの二つが乖離してる人も散見されると思います。
しかししっぽさんの論ではある集団はある事柄の善悪カテゴリわけをする時の材料が集団の利害で決定されるというプロセスを無意識的に行っているので、これが、条件行動的だと思ったのです。「プロセスを無意識で行ってる」という点ですね。
これが、条件的であるから、しっぽさんの論が間違っているという話では、もちろんないです。
ただ善悪の決定はもうすこし、複雑な決定プロセスが存在するのではないでしょうか。社会的・宗教的背景は基本的に集団の自衛プログラムだとは、思います。この点ではしっぽさんと似ている意見でしょうか。ただ、集団の自衛のためにやっていた何か、これは手段ですね。この「自衛のための手段」が具体的であるが故に、手段ではなく目的になり、その結果「その目的、意味あるの?」という話になることがままあると思い、そこで善悪のカテゴリ分けも複雑化するのだと思います。
集団の団結力向上、横のつながりの強化のためにやっていた「祭り」という手段が、いつしか目的になり、「なぜこの地域に祭りが必要なんだ。カネもかかるし、第一、実行委員だの何だのと時間をとるが、こっちには仕事も家庭もあるんだ」とよく解んない議論に発展するのもこのためだと思います。
どうも僕の話は横にそれてしまいますが、善悪というとても抽象的な概念も、昔は手段で、今はそれ自体が語るに足る目的になってしまい、それゆえに議論が拡散するのだと思います。
うーん、自分でも何が言いたいのか良く解らない、かもしれないです。ごめんなさい

662   投稿者: 小泉 (2006年07月24日 11:56)

追記(すみましぇん)
ある集団、社会の初期に関してはしっぽさんの言う善悪決定プロセスがほぼ間違いなく使われていたと思います。

664   投稿者: しっぽ (2006年07月25日 09:46)

>本気で食って掛かってるわけではないですよ。念のため
あははwわかってますよ。
そうではなく主張されてることと見当違いのところへこちらが答えても、なにかと思っただけで。

おっしゃりたいことはなんとなくわかりましたー。
複雑な決定プロセスっていうのは同意です。
というのはですね、この残るものが善という理論は暗黙の了解で「長期の時間」という条件が入っているんですよ。
進化のプロセスもそうなのですが、短期間には一見謎の進化が発生することがあります。
例えば幾つかの動物にある、生存目的に使用するには長すぎる角や牙とか。
これらは主に求愛行動のために発達したものなのですが、よく考えると牙の長さで求愛を決定するのは、行き過ぎると生存競争上好ましくないはずですよね?
といったように、実際には生存競争には好ましくなくとも、短い期間ではそれとは別の要因で生成される要素があるということになるわけです。
しかし長期間で見てみるとこの牙の求愛行動は逆の方向へ反転します。
というのは牙がいざ生存に邪魔になってくると、今度は牙の短いほうが増え始めて、元へ戻そうという力が働くわけです。
もしくは長い牙が原因でその種が滅びるか、どちらかになります。

善悪の決定のプロセスには、何度も言っている様に残すためという誰の意思も働いていません。
ですから言ってみれば現在の善悪はかなりランダムな要素も含みます。
(例えば新興宗教が自殺しようと言い出しても、しばらくは残っています。)
ただし、今まで残った善悪のプロセスに「残ったものが残った」という結果はかなり強く働いており、この善悪のプロセスの殆どには、そのプロセス自体も残すという強い力があります。
何故ならプロセス自体を残そうとするプロセスでなければ今まで残らないからです。
(つまり善悪という1つの指標自体が、生物のように増殖と防御能力を持っていなければなりません。)
というわけで、今ある大きな善悪、つまり人を殺してはいけないとか、物を盗ってはいけないとか、そういうものは共同体を維持する能力の強いものである、と結論付けることができますし、逆にそれ故に善であるとも言えるわけです。

667   投稿者: 小泉 (2006年07月25日 15:22)

なるほど。古典的善悪のお話と長期的収束のお話だったのですね。納得しました

668   投稿者: しっぽ (2006年07月25日 16:23)

しいて言えば今の善悪も古典善悪を基盤として使っているので、そうだと言えなくもないですね。
動物愛護とか。