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2006年07月04日

 存在するモノの法則2。人を殺してはいけない理由。このエントリーを含むはてなブックマーク

はい、前回当たり障りの無い内容を書きすぎてコメントがまったく無いことに凹み気味のしっぽです!

前回のはこちら。
しっぽのブログ: 存在するモノの法則1。動物が生きようとする理由。
まあ、結局進化論なんですが。

でー、ですね。
ここからまず、どうして人を殺してはいけないのか?という話をしてみようと思います。

まず、僕は「生命の威厳」とか「神の思し召し」をまったく信じていません。
あと輪廻転生と天国と地獄も信じていません。

というわけで、唯一神の方とか、インテリジェンスデザインがどうのこうのっていう人と、
人を殺すのがいけないってことに疑問をもってはいかーん!って人は回れ右。

人を殺してはいけない理由を2つに分けてみる

人を殺してはいけない、という感情が生まれる理由を2つに分けてみます。
1つは本能、遺伝子、感情。
人間は生まれながらにある程度人間を殺すことに抵抗感を感じるという話。

もう1つは、道徳、常識、社会通念、教育。
生まれた後に、人殺しはいけないのだと教え込み、社会でそれを守ろうとするって話ですね。

人間の行動がある程度本能によって左右されるということは異論が無いと思いますが、人を殺してはいけないということが、遺伝子上に組み込まれているかは、異論がある人がいるかもしれません。
こればっかりは生まれてから人間との接触を絶った子供でも用意して実験してみないことには本能部分の判断はつかないのですが、(そして当然そんな実験はできないのですけど)
同じ哺乳動物のうち群れを作る動物の多くが無闇に同種を攻撃しないことから、人間にも同じ本能が組み込まれている可能性はかなり高いんじゃないかなーと。
ただ、理性や常識感に比べると弱い効力のようですが。

道徳のほうですが、社会には人を殺してはいけない道徳が当然あると思いますよねー。
僕は人の理性とは後天的に教育されるものだと考えているので(逆に後天的に得たものを理性と考えていますけど。)、全ての「人を殺してはいけない」というものの理論的理由は、教育もしくは学習、思考によって成り立っていると思われます。

本能的に殺さない理由

まあこっちは簡単ですね。
進化論に則って言えば、群れを成す動物が、群れの仲間をおいそれと殺すようでは生存率が著しく下がります。
結果、本能的に仲間を殺さないという遺伝子のみが残るために、人間は人を殺さないのです。

ついでに言えば、自分に害を成す存在や、仲間という範囲の外側と認識した相手は、仲間と比較してある程度容易に殺害し得るのはこの話で説明できます。
人間が野生として生きていた頃にはそういうことも必要だったでしょうから。

余談ですが、進化の推移は2000年ほどでは大規模に変化せず、特に人間が社会生活を営むようになってからは進化の速度は非常に緩やかになっていると予想されるので(淘汰が生体の生存率に正確に沿わなくなってくるため)、人間の本能は社会生活を営む直前とあまり変わっていないと言えます。

社会的に殺さない理由

で、こっちなのですが、実はこっちも同じ理屈で説明できるんですよ。
というのは、

時は人間が社会生活を営み始めた頃。
団体Aと団体Bがいました。
Aの人たちは、「人を殺すのはよくないよね」と言っていました。
Bの人たちは、「人を殺しましょう」と言っていました。

まあ当然団体Bは自然消滅するでしょうね。
Aのような思想の人たちだけが残るわけです。

こんな無茶苦茶な団体は無いとしても、人を殺してもいいレベルは、現代の社会で大多数意見な「人を殺してはいけないけど、正当防衛や緊急避難はOK」というところへ収束するのだと思います。
これが団体として見た時、最も生存率を上げることができますから。

で、重要なのは、くどいですけど生存率が上げられるとか考えた人がいようが、いまいが、意識的だろうが偶然だろうが、最終的にそうなってしまう
例え人間に人を殺してはいけないという本能が無かったとしても、社会が成長する過程で必ずこういう文化が生まれてしまうんですよ。
そしてそれは社会の生存国の多くが「人を殺してはいけないけど、正当防衛や緊急避難はOK」に収束していますよねー。
団体の生存率というレベルではなくても、社会の繁栄度というものに換算されて、現代も残るわけですよ。今栄えている
これは思想が伝播する際に、栄えている側の思想がより強い効力を持つ現象にも支えられ、結果その思想が世界へ広がっていく原因にもなるわけです。

つまり、人間が人間を殺さない理由は

これも結果必然です。
もし人間が1度リセットされて、何千年も何万年も前の状態から再スタートしても、倫理観は今の状態とさほど変化無いものに収束してしまうわけです。
(その社会の豊かさで多少の誤差が出ますが、「人を殺しても良い」とはならない、という意味で。)

だからまーったく難しい話ではないんですよー。
リンゴが地球上で下に落ちるように、自然に、単純に、大多数が、そうなるわけです。
それしか残らないという仕組みで。

これが、人間が人間を殺さない理由 というわけで納得してくれるかなぁ。

次回は、「存在するモノ全ての法則」か、「善悪について」とかの話を書きたいと思います。

余談:ヒトラーの失敗

こういう風に自然淘汰を社会に結びつける場合、ヒトラーやらの優生論を引き合いに出され、非人道的だと言われがちなのです。
つまり、弱肉強食を勝ち残った社会が生き残るのが正しいなんてとんでもない!弱者は死ぬべきだなんてとんでもない!という話ですね。
格差社会云々にも関係するかな。
ヒトラーの思想はダーウィンに多くの影響を受けているっていうのは、本当か嘘か有名な話なのですが、もし本当だとしたら、ヒトラーは進化論を正確に理解していなかったのだろうなぁと思います。

自然淘汰と弱肉強食は違います。
だって、地球上で一番強い生物って、ライオンかチーターか虎か狼か知りませんけど、かなり多くが絶滅しかかってない?
少なくとも種として最も安定してるとは言えないですよねぇ。
じゃあ地球上で最も繁栄してる生物は?
人間・・・ではないでしょうね・・・数で言えば虫か、微生物か、植物の何かかもしれないですよね。

つまりですね、相手を弱肉強食で倒して捕食するっていう生態は、自然淘汰から見ればとっても危うい、低レベルな手法と言えるんですよ。
むしろ共生したり、住み分けしたり、自分でエネルギーを作り出したりするほうがよっぽど頭がいい方法なんです。
だから、相手を倒せで押せ押せだった国は、大抵駄目になってしまってますよねー。

というわけで、自然淘汰と弱肉強食は違うので、間違えないでくださいねーと。

p.s.絵とかは気が向いたら付け加えます。文章の修正も後でするかもしれません。

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コメント

590   投稿者: ミコーン (2006年07月05日 00:25)

ミコー

591   投稿者: wan (2006年07月05日 04:01)

頭がこんがらがってるので、ちょっと、確認させてもらいだいんですが、

しっぽ氏が主張しているのは、現在「人を殺してはいけない」とされているのは、意識、無意識関係なく「人を殺してはいけない」とした人々しか生き残れなかったから、ということでしょうか。

あと、「人間が人間を殺さない理由」と「人を殺してはいけない理由」は同じ意味でしょうか?

592   投稿者: すけるとん (2006年07月05日 05:57)

>群れを成す動物が、群れの仲間をおいそれと殺すようでは生存率が著しく下がります。

では、一つだけ。
群れ全体がそのような「温厚な性格(いのちだいじに)」の個体で満たされているとき、その中に一体だけ「凶暴な性格(ガンガンいこうぜ)」の個体が生まれてしまったとします。これは突然変異でもなんでもいいです。すると、この個体は一方的に群れからの恩恵を受けつつ、仲間を殺すことを厭わないので、群れの中で多くの資源(食糧・異性など)を獲得しやすくなり、たくさんの凶暴な性格の子孫を残します。すると、群れは凶暴な性格の子孫で満たされはじめます。
そうしたら、今度はそのような凶暴な性格の個体は互いを潰しあいはじめて、生き残りにくくなります。今度は温厚な個体のほうが生き残りやすい条件となり、温厚な個体が増えていくことになります。こうして、群れの中でも互いに協力しあう、温厚な個体と、仲間を裏切ることに抵抗を感じない、凶暴な個体とがある一定のバランスで存在することになるのです。

つまり、「生まれつきの殺人鬼(になりやすい個体)」というのは淘汰されずに生き残るのですよ。それは、一方的に排除される性質ではないのです。どちらかというと、そのような個体達の行動を縛るために、温厚な性格の個体が考え出したのが、倫理とかなんとかなのかもしれませんね。

しかし、さすがしっぽさんでとても分かりやすく書かれているなあ、と思いました。次にも期待してますにゃー。あ、にゃーいうてもうた。

593   投稿者: しっぽ (2006年07月05日 10:16)

wanさんへのレス。

>しっぽ氏が主張しているのは、現在「人を殺してはいけない」とされているのは、意識、無意識関係なく「人を殺してはいけない」とした人々しか生き残れなかったから、ということでしょうか。

そうです。
もう少し正確に言えば、「人を殺してはいけない」とした群集が、ですが。

>あと、「人間が人間を殺さない理由」と「人を殺してはいけない理由」は同じ意味でしょうか?

そうです。
ここがこの理論の肝です。
つまり社会という状態をほうっておくと、自然と人を殺してはいけない、というものが産まれる。
ということは神とか倫理というのは結局どれでもよいことになります。
私たち生物を自然現象と捕らえたとき「何のために」は「どういう原因で」というのと同値になります。
それはキリンの首が何故長い?という「目的を聞く」質問が実はキリンの首はどうして長くなったという「原因を聞く」質問となることと同じように、です。

594   投稿者: しっぽ (2006年07月05日 10:55)

すけるとん さんへのレス

>群れ全体がそのような「温厚な性格(いのちだいじに)」の個体で満たされているとき

はい、一歩踏み込んだお話ですねー。
これはゲーム理論で言うところのタカハトゲームのことを言っておられるのだと思います。
参照:
http://www.wakayama-u.ac.jp/~syuiti/Info3-06/node31.html
タカが凶暴、ハトが温厚ですね。

実際このようなタカの固体は一定数を維持し、集団の中に残り続けます。
ただし、この状態には2つの条件があります。

・閉じた団体内でのこと。
・これ以外の戦略が産まれないこと。

というのは、もしこれを団体同士の話で考えると、タカを持つ団体よりも、タカを持たない団体のほうが、内部で効率的に資源を分け合うことになります。
団体として考えれば、内部のタカを排除しようとする仕組みがより良い戦略となります。

これを個体の戦略で考えれば
「ハトに対しては温厚、タカに対しては攻撃的」
という新種のハトが、勝ち抜くことになります。

異質の排除、恨み、仕返し、罪罰・・・
人間の本能から社会に至るまで、このような団体内の異物を排除しようとする機能が見受けられます。
そして、例えばサルやカラス、他の哺乳動物にもこういった団体内での処罰や、相手の行為にあわせた敵意という、本能があるのも有名な話です。
ですので
>そのような個体達の行動を縛るために、温厚な性格の個体が考え出したのが、倫理とかなんとかなのかもしれませんね。
というよりは、これも無意識、無目的にこういった状態が発生すると言えます。

>さすがしっぽさんでとても分かりやすく書かれているなあ、と思いました。
ありがとうございますにゃー。

595   投稿者: ホネ (2006年07月05日 17:48)

>というよりは、これも無意識、無目的にこういった状態が発生すると言えます
あー。確かに、「考えて出した」というと、趣旨から外れちゃいますねー。駄目ですねー。
ただ、『集団内に仲間殺しがいない集団』においては、『仲間を殺してはいけない』というルールが発生しなくてもいいわけです。そうしなくても、自然にハト集団状態が続くわけですから、ルールが発生するような圧力がかからない。
常に、殺人者がある一定の割合で存在しうる集団、あるいは、どの個体も多かれ少なかれ殺人者となる要素を持っている集団内だからこそ、そのようなルールが生まれたのではないかなあと。そして、現在も多くの種でそのルールが保持され続けている。このことそのものが、『仲間殺し』が淘汰されずに生まれてくることを証明している気がするのですよ。ていうか生まれてきますよねー。
>本能的に仲間を殺さないという遺伝子『だけ』が残る
のなら、ルール設定はなされないわけです。つまり、
>例え人間に人を殺してはいけないという本能が無かったとしても、社会が成長する過程で必ずこういう文化が生まれてしまう
わけですよねえ。

あと、人間に限っていえば、人殺し禁止ルールの有利さに意識的に気づいているほうが、それを強力に実行するので、意識的であることって結構重要かなあ、なんて。

まぁ、なんかそんなことが言いたかったような夏の朝だった気がします、ごにょごにょ(遠い目)。

596   投稿者: wan (2006年07月06日 10:23)

返答、ありがとうございます。
 
 私の頭がこんがらがってるのは、しっぽ氏と提起してる問題が違うからだと思います。
 私は「どうして人を殺してはいけないのか?」というのは、「『人を殺してはいけない』という主張を、正しいとする根拠は何か?」という意味であると思いました。つまり、「人を殺すことは本当に間違っているのかどうか」の議論です。「人を殺すのがいけないってことに疑問をもってはいかーん!って人」も、それが本当に間違っているかどうかの議論をすることに反対なのだと思います。キリンの首の例で言えば、「キリンの首は本当に長いのかどうか」の議論、という具合でしょうか。
 逆に、しっぽ氏が設定してる議論は、「人を殺すことはいけない」という考えが(キリンの長い首が)、どのような「原因」から出来たものか(キリンの首が長いのはどのような「原因」からか)の議論だったのでしょうか?

 あと、まだ纏まってなくてあやふやなことなですが、二つあります。(時間が出来たら、まとめたいですがおそらく無理です)
 
一つ目は、キリンは首が伸びるかどうかを選択することはできないが、人は人を殺すかどうか選べる、ということです。「本能的に仲間を殺さないという遺伝子」があったとしても殺すことはできます。これがどう関わっているかは分からないんですが、何かこの違いが引っかかります。


 二つ目は、人間の意志に関してです。しっぽ氏の意見を聞いてると、この部分に関して意見の相違があるような気がします。つまり、しっぽ氏は人間の意志をあまり問題にしていないということです。
 
 次の例で考えて欲しいのですが、1928年にパリ不戦条約が締結されました。これは、「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約」(自衛権はある)で、第一次世界大戦の後に作られたものです。たしか、出来た理由は、第一次世界大戦がそれまでの戦争よりあまりに悲惨だったからです。また、詳しくは調べてませんが(確か『痛快!憲法学』に載っていましたと思います)、このような条約をわざわざ作ったということは、それ以前には戦争自体は悪いこと、やってはいけないことと考えられていなかったのでしょう(やり方のルールはあったかもしれませんが)。
 この戦争を否定したのは、同じではありませんが「人を殺してはいけない」の発展型といえます。
 これらは、私には人間が第一次世界大戦という経験から学習して、意思を持ってこのようなルールを作った過程と思えます。しっぽ氏にとっては、これはどのようなものなのでしょうか?


あと、これは個人的なことです。
哲学方面はサッパリですが、社会学なら「共同体保持」を重視してる面とか(これだけだと、他の主義も当てはまりそうですが)、生物の仕組みに感動する部分とかは、(構造)機能主義に近いのかなと思いました。(今回のエントリーの部分は関係ないですが)説明とかは、社会学の総論が載ってるような本なら大体載ってると思います。

では、失礼しました。

597   投稿者: しっぽ (2006年07月06日 13:19)

ホネさんへのレス

>ただ、『集団内に仲間殺しがいない集団』においては、『仲間を殺してはいけない』というルールが発生しなくてもいいわけです。
そうですね、ただしどこまでが仲間か?という問題については曖昧な部分があるのですが・・・

>常に、殺人者がある一定の割合で存在しうる集団、あるいは、どの個体も多かれ少なかれ殺人者となる要素を持っている集団内だからこそ、そのようなルールが生まれたのではないかなあと。
その通りです。いいとこ突いてくれますね。
殺人者がある一定の割合で存在しうる集団となる原因は2つ考えられます。

1つは、生体構造上のバグであるということ
2つめは、そのバグも含め、一定の認識の揺らぎがあるほうが、生存に有利だったということです。

これはつまり、進化論に行き着きます。
遺伝子には構造上その遺伝子を変革する仕組みが組み込まれているという事実は有名です。
具体的に言えば遺伝子の螺旋構造、2つの性の存在ですねー。
子孫の数を犠牲にしてまで手に入れたこの変化という仕組みですから、それが生存にどれだけ重要だったかうかがえます。
この変化は人間の本能に対して、仲間の境界の認識や、殺人の許容の境界の認識を揺らがせます。
つまり、人間の本能は殺人者を一定数で発生させる仕組みを持ち、かつそれを集団が押さえ込むという仕組みを持つことで環境の変化に備えているわけです。
何故なら古代人類において、低確率の条件下では殺人、さらに低確率で仲間殺しが生存に必要であったからです。

もう少し言えば、人間には周囲の環境の安全さを判別し、それに合わせて自分の凶暴さを決定する仕組みが備わっています。
幼児期に虐待を受けた人間が、温厚な家庭に育った人間よりも不安定で暴力的になりやすい傾向は、虐待によって周囲がある程度危険であるという判断を下した幼児期の脳が、環境に合わせ、暴力が一定数必要だとしてそれを判断の基準として備えたと言えます。
これは本能がただ単一の基準を持ち合わせるのではなく、周囲の環境に合わせ、かなり柔軟な対応を持ち合わせるという証拠にもなります。
そして柔軟であるということは時に誤認を持ち合わせるということです。
虐待を受けた幼児の例で言えば、自分の周囲は確かに暴力的であったが、その外に出ればそうではないという事実があるにも関わらず、(物理的な問題により)周囲の情報のみで暴力的な判断を行うという誤認を起こし、結果成長後には社会の環境と折り合わなくなります。

それで、ですね、ここも語ろうと思えばかなり長くなってしまいw
人間の自由意志による決定とは何か?という部分に関しては次か、その次のエントリあたりで語れればいいかなーと。

598   投稿者: しっぽ (2006年07月06日 14:52)

>wanさんへのレス

>しっぽ氏と提起してる問題が違うからだと思います。
僕はそうは思いません。
wanさんは、ルールの原因と目的は違うという主張のようなのですが、さて、本当にそうでしょうか?
つまり僕の主張は「人を殺してはいけないのが正しい根拠」=「人を殺してはいけない原因」だと考えているのです。
そもそも、正しいとは何でしょうか?間違っているとは何でしょうか?
実はこの論点は次のエントリーでやる予定だったのですが、幾つかここで提示します。

人を殺してはいけない理由に、例えば人が悲しむから、というものを持ち出したとしましょう。
しかし、人が悲しむことをしてはいけない理由は?という問題が未解決です。
人が悲しむことをしてはいけない理由は?に、自分が嫌だと思うことは人にしてはいけないよと持ち出しても、何故?となってしまいます。
つまり理論に理論を理由としていってもどこにもたどり着けないのです。
まあそうして行くとデカルトさんのとこまで辿り着いちゃうのですが、僕はそうではなく、自然科学で採用されている根拠を持ち出します。

つまり原因と結果です。
何が正しいかはとりあえず(次回まで)保留して語りますが、
自然とそうなってしまい、その環境の中で残るのに相応しい、自然なルールが存在し、その仕組みが分かっている。
この仕組みがそもそもルールの原因であり、ルールが現に存在している。
しいて言えば、現在そのルールが本当に生き延びるために有効であるか?が論点となるでしょうか。
もちろん上記の仕組みが正しいと仮定した後、ですけど。

「キリンの首は本当に長いのかどうか」の議論に当てはめるのは違いますね。
これに照らし合わせれば、殺人の話は「本当に殺人は禁止されているか?」といった議論になります。全然違っちゃいます。

>人は人を殺すかどうか選べる、ということです。
えーっと、自由意志論ということなのかな。
人間の意識というものが無から自然発生したという理論を持ち出さない限り、それは本能と環境の2つによって成されます。
つまり、人を殺すと選択したのであれば、その要因が存在すると考えられるわけです。
少なくとも僕は「人を殺すこと」を選べません。
wanさんも選べないでしょう?選ぶことを想像することはできるかもしれませんが。
これは「人を殺さないこと」を選んでいるからでしょうか?それとも「人を殺すこと」を選べないように、社会的にも本能的にも縛られているからでしょうか?

もちろん人を殺す人もいます。
ですがこれもエントリーで述べた話で説明できてしまうのです。
つまり、自己の防御、復讐など、人間が古代に生きたときに必要だった本能が、団体に上手く抑えられなかった結果だということです。
あ、もちろん殺人者には責任は無い!とかいう理論とは別なのであしからず。
殺人者に罰を与え、罪を憎むことも現代の社会の生存には必要なのですから。

>たしか、出来た理由は、第一次世界大戦がそれまでの戦争よりあまりに悲惨だったからです。
条約締結の大義名分が本当に条約締結の理由かどうかは知りませんけどねー。

戦争を控えるのは、戦闘による急激な崩壊を防ぐ良い手段だと思いますね。
このことも次回の話で語る部分が多く、今ちょっと返答に困るので保留させていただきます。
早いうちに次のエントリ書きたいですね。

599   投稿者: おっく (2006年07月06日 15:45)

あぁ、先日報告したばかりなのに悪いです;
この文もコピペです、お許しをorz

サーバー様の都合によりサイトが転移したので、
バナーアドレス・サイトアドレスが両方
変わってしまいましたorz

サイト:http://sv.kerosoft.com/%7Eokkunet/

AAバナー:http://sv.kerosoft.com/%7Eokkunet/banar1.gif
ポケモンバナー:http://sv.kerosoft.com/%7Eokkunet/banar2.gif
カービィバナー:http://sv.kerosoft.com/%7Eokkunet/banar3.gif


変更よろしくお願いします!

記事読ませていただきました、
凄いですね。私のチンケな脳味噌では
こんな文章かけませんorz

本が書けそうな内容ですよね。
・・・売り出されたら買いますy(ry

600   投稿者: しっぽ (2006年07月06日 15:47)

ちょw
できればこういうブログに書かずに
メールとかでw

601   投稿者: wan (2006年07月07日 02:37)

レス返しをしようと思ったのですが、書いてみたら殆どが、自問自答だったのでその部分はブログのほうに書き、トラックバックさせてもらいました。

それで、質問の方なのですが

>wanさんも選べないでしょう?選ぶことを想像することはできるかもしれませんが。
これは「人を殺さないこと」を選んでいるからでしょうか?それとも「人を殺すこと」を選べないように、社会的にも本能的にも縛られているからでしょうか?

これがいまいち理解できてないんですが(というか、自分で自分の疑問点もよく分かってないんで。「自由意志論」とかいう奴なんですかね、これって)、「自分の意思で殺さないことを選んでるように思ってるかもしれないけど、実際には社会や本能がアンタ心にそうさせてるだけだよ」ということでしょうか? 「捕まるのがいやだから」というのも、「捕まるのがいや」という感情を社会や本能が作ったんだ、ということでしょうか?

条約の方ですが、実行力がなかったのは確かです。だからと言って、なにかそれ以外の利益があったとも思えませんが。とりあえず作っとけ、という感じだったんでしょうかね。

どうやら、あまり有益な質問・反論も出来そうにないので、見る中心に戻ろうと思います。次のエントリー期待してます。

648   投稿者: Writer (2006年07月22日 02:17)

 はじめましてしっぽさん。AA描きコテハン大辞典とかVIPブログ騒動とかから飛んできました。早速ですがこのエントリに対しての愚見をば。
 主張内容自体は至極最もだと思われるのですが、論理構成がどうも納得いきません。やはり「人を殺してはいけない」という問題に対して「そもそも人を殺さない集団が残ったんだ」というように結論付けるのは、どうもしっくりこない。それは例えば「どうして人を殺す人間が少数派なのか」とかいう問題の答えとしかなりえないと思います。
 「人を殺してはいけない」、なぜか。それは社会のシステムとして、人を容易に殺すような集団が淘汰されてきたからである。その結果、人を容易に殺さないような集団が多数派になった。しっぽさんの主張はここまでです。しかしこれには以下のような疑問が残ります。

どうしてそのような集団は人を殺すことをよしとしないのか

というものです。これは至極まっとうな感覚です。「どうして~がいけないのか」という疑問に対する答えは、~をやっている人間がどれくらいいるかという問題とは本来無関係です。道路交通法はあまり守られていない(信号無視、自転車に乗ったままの横断、etc...)ですが、しかし守らなくてもいいという意見は全体において少数でしょう。守らなくてはいけないという考えと守るという行動が一致して無い。そこには規制が緩い、慣習的に守られていない、熱心に教育がなされない、などの諸所の理由があるのです。
 ここで、どの程度のレベルまで理由を辿って遡っていくか(最終的には我思う故に我ありになりかねないけどそれはナンセンスだ)という問題が出てくるんですが、それは全ての問題に共通して存在する、所謂"落としどころ"ですね。
 話を戻しましょう。確かに「人を殺してはいけない」という事実(仮定します)と「人を殺さないような集団が生き残った」すなわち「今の集団は人を殺する人間は少ない」ということは関係があります。しかし、それは相関でしかなく因果ではないのです。
 人を殺してはいいという理由をシステム上の淘汰と考えるのも論理構成としておかしいし、原因論にも帰着できない。両者はそもそも問題とその一要因の関係でしかなく、後者をもって前者を完全に説明できるほどの因果関係は存在しないのです。

……わかりにくいw
もし読んでいただけたら、ご意見よろしくお願いします。

653   投稿者: にあに (2006年07月22日 15:31)

乗り遅れたから次が書かれるまで待ってようかと思ったけど、とりあえずここに書いちゃいますね。

結局しっぽさんがおっしゃることはアプローチの方向が違うだけで
「人を殺すのがいけないってことに疑問をもってはいかーん!」って事と変わらないと思います。
「そうできている」ってのは原因であって理由ではないですから。

803   投稿者: Anonymous (2006年09月21日 13:30)

こんにちは。記事を一通り読ませていただきました。その中で引っかかる点がありましたので、指摘させていただきます。
まず、しっぽさんがこのエントリに挙げられた問題提起は「どうして人を殺してはいけないのか?」です。これは問題ないでしょう。問題があるのはそれを導くための論理展開です。
私はそこまでは「うん、うん」と思いながら読ませていただいていたのですが、次の文を読んで「おや?」と思いました。


人を殺してはいけない、という感情が生まれる理由を2つに分けてみます。

感情? どうして? どうして感情の問題に転化しているのか。感情的に否とされた命題は、絶対的に偽であるのか? 私はそうは思いません。何十人も殺した犯罪者がいたとして、そいつが確実に特定できた場合、裁判なしに殺してもいいという感情を抱く人間は相当数いると思われます。しかしそれは「法的に」正しくない。「感情において」正しくても、それが他の面において絶対的に正しいかと言われると、必ずしもそうとはいえないのです。仮にそれが示せてもそのことによって帰結できることは(たとえば当エントリの場合)「なぜ人を殺してはいけないと人は考えるのか」あるいは「なぜ人を殺してはいけないと大多数の人間は考えるのか」ということしか示せないのです。
これは「人を殺してはいけない理由」の一部となりえるとはいえ一致することは絶対にありません。それならば初めから「どうして人は人を殺してはいけないと考えるのか」といったような問題提起をすべきです。おそらくしっぽさんはそういった趣旨で問題提起をされたと思われるのですが、表現にあやがあります。
ただ、初めから「人を殺してはいけない理由」と銘打って、いつの間にか感情論にシフトさせて、最後には「結果で必然」というような「釣り」を行ったのであるならば、私も、私のほかに意見をしたみなさんも、見事に「釣られた」ことになるのですが。
長々と失礼いたしました。
今後も質の高いエントリを期待しています。

804   投稿者: しっぽ (2006年09月21日 19:25)

こんにちは。
投稿の片方は2重のようだったので任意に削除させていただきました。
コメントのタイミングや匿名であることから、こちらの返答をごらんになられるか不安ですが、一応返答をしておきます。

まず、釣りではないです。
次に理論の飛躍があったことを認めます。

というのもですね、実はこの理論は僕の持論としてもっとかなり長いものを
どうにかまとめようと短くしたもので、その感情のシフト部分も、うんうん頭を悩ませつつ、どうにか分かり易い文章にならないかと、泣く泣く削った部位になります。

僕は正確な文章と、人に伝える文章は別だと思っています。
ネットにおられる知識人の方々が崇高な理論を持っていてもそれが一般人に伝わらないのは、彼らがどうしても正確に文章を書くせいだと思っていまして、自分の文章はなるべく切って詰めて、話し言葉で、飄々と書くように勤めています。
ただ、その過程でどうも抜け落ちたり辻褄が合わないことを言ったりするのは、自分が未熟であると言わざるを得ないと思います。

感情という話が出てきた部分について、少し補足を行います。

まず、人殺しが善か悪かは不明ですが、一般社会においてこれらを悪とする思想と感情が存在することが自明だとします。
注意して欲しいのですが、私は宇宙全土の基本原理として「人殺しが悪」と妄信的に言ってはいけないと考えているため、このエントリーで語られるものは正確に書けば
「どうして一般人間社会及び、一般人間、道徳、宗教、その他教育、本能において、人殺しが悪という理論が大勢を占めているのか?」
ということを語っていることになります。

法律であるか、道徳であるか、を区別せず、これらは人間の脳に作用し、人殺しを思いとどまらせるファクターとなるものです。
これらを「非殺人ルール」と定義します。
比較的理性的な反応も含んだ話ですが、
>裁判なしに殺してもいいという感情を抱く人間は相当数いると思われます。
このような場合、その相当数の人間は、「非殺人ルール」によって殺人を思いとどまり、結局殺人には至らないのではありませんか?
つまり、正常な社会人の場合いずれかの(それは逮捕されるのが怖い、目的にたどり着くまでが大変という理由でも構いません。同じことです)理由によって「人を殺してはいけない、という感情が生まれる」というわけになります。
言い換えれば直接的でも間接的でも、結果的に人に人殺しをさせないというファクターが存在することになり、その多くは感情という形で人に左右する、となります。
この場合例えば、民衆を拘束するなど、感情以外の部分に(この場合は物理的に)作用して「非殺人ルール」を作ることができますが、その例は稀ということで、話をわかりやすくするために感情という単語を使用しました。

逆に言えば、この「非殺人ルール」の存在が、「大多数が人殺しをしないという社会」を作るうえで必要なものであり、逆に人殺しを思いとどまらせるファクターとならないものは、「非殺人ルール」とならず、「大多数が人殺しをしないという社会」への影響が無いものとして考えられるわけです。

「非殺人ルール」は偶然でも人為的なものでも関係ありません。

さて、この「非殺人ルール」を2種類に分けると・・・

という部分で本文に繋がります。
これなら少しは納得していただけるでしょうか?
私としてもここら辺の理論は上手く文章化できていない面があり、不明な点はどんどん聞いていただけると、自分以外の人間にどの部分を重点的に伝え、どの部分はわかりきったことなのかということを探るのにとても役に立ちます。

(私の経験上、あまり期待できないのですが)是非もう1度このエントリーをご覧になった時、このコメントを見つけたらお返事をいただけると嬉しいと思います。

806   投稿者: にあに (2006年09月23日 05:00)

>しっぽさん
わざわざ回答していただいてありがとうございます。追記させていただきたいのですが、私は決してしっぽ氏の書いた当エントリが無意味なものということを言いたいわけではありません。
本能や道徳観に命題の理由を求め、最後にはその必然性を見出す流れには感動すら覚え涙しました。
ほんの些細なミスを不躾に指摘するような意図はありません。
しっぽ氏の他にも、もしそのように思われた方がいらっしゃれば、この場をお借りして深くお詫び申し上げます。
最後に、しっぽさん、これからのエントリも期待しています。がんばってください。

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正しく投稿されてることが多いです。
落ち着いて確認してみてください。)

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